故、張九齢の諫言
二月二十二日、
郭子儀は息子・かんと兵馬使李韶光、大将・王祚たちを、黄河を渡らせ、潼関を攻撃させた。
そして、大破した。
急いで橋を燃やし、踏みにじって、無い物とした。
敵将・崔乾祐は、城を棄て、白けい嶺に逃れた。
遂に、河東地方を手に入れた。
崔乾祐は、蒲津に退き、とどまった。
その時、永楽の尉・趙復、河東の司戸・韓旻、司士・徐けい、宗子・李蔵鋒たちが、蒲州にいる賊を陥れようと、四人で秘密裏に相談した。
そして、官軍が来たら、内応するようにした。
郭子儀が蒲州を攻めた。
趙復たちが、賊を守る部下たちを斬り、開門して、郭子儀を入れた。
崔乾祐と部下三千人は北の安邑に走った。
百姓が降服したように見せかけた。
崔乾祐たちが安邑城に半分ほど入ったところで、門の閂がかけられ、入った兵たちは襲われた。
崔乾祐は、まだ入っていなかった。
抜け出して東に走った。
郭子儀は、遂に、せん郡と永豊倉を手に入れた。
安慶緒は、潼関を救うために兵士を遣わした。
郭かん等が、大敗して、死者が一万人を越えた。
李韶光、王祚が戦死した。
僕固懐恩は、馬の首を抱いて渭水を渡った。(遊牧の民は、泳げない。よく、渡り切ったものだ。)
黄河を渡れずに、死んだ者も多かっただろう。
三月十三日、
左相・韋見素を左僕射とし、中書侍郎、同平章事・裴冕を右僕射に任命して、政事から手を退かせた。
かつて、揚国忠は、憲部尚書の苗晋卿を嫌っていた。
安祿山の乱の前、苗晋卿は、せん郡の太守、せん、弘農防禦使を希望していた。
だのに、乱が起きると、苗晋卿は、老病を理由に強く断った。
玄宗は、身勝手な態度を喜ばなかった。
辞職させた。
長安を失った時、苗晋卿は山谷に隠れていた。
粛宗が、鳳翔にいた時、苗晋卿を呼び出し、左相とした。
国の軍事の大切な案件を、全て、相談した。
ある日、玄宗は張九齢の事を思い出し、先見の明を偲んだ。
軍令を守らない行為をした、安祿山を「昔から、軍令は守られるべき」と、張九齢は主張した。
規則通りに処罰するべきと云うことである。
だが、玄宗は、功績が書かれた添え状を見て、許そうとした。
おまけに、あの者の面構えには、謀叛の相があります。
「殺さなければ、必ず、後の災いになるでしょう。」
あの時、玄宗は、張九齢の言葉を聞かなかった。
そして、安祿山を許した。
だから、こんなことなったのだ。
思い出すと、涙が流れた。
張九齢の故郷・曲江に使いを送り、その家に金品を賜り、厚く祀らせた。




