永王・りんの死
関内節度使・王思礼の軍は武功に、兵馬使・郭英乂の軍は東原、王難得の軍は西原にいた。
二月十九日、
安守忠らが、武功に侵入して来た。
郭英乂は、戦いに不利だったので、あごに矢が刺さったまま、走って逃げた。
王難得は、救いが望めなかったので、また、逃げた。
王思礼は、軍を扶風に退かせた。
賊軍の遊兵は、大和関まで来た。
鳳翔、五十里のところで去った。
鳳翔は、大いに驚き慌てた。
戒厳令が敷かれた。
李光弼は、死も怖れず出撃して、蔡希徳を大破した。
取った首七万以上。
蔡希徳は、逃げ去った。
安慶緒は、史思明を范陽節度使、恒陽軍事、い川王に任じた。
牛廷介を安陽軍事とし、張忠志を常山太守と団練使とし、土門を守らせた。
官軍から守るため、兵士を募集した。
これまで、安祿山が長安と洛陽から得た、珍しい宝物などは、すべて范陽に運ばれていた。
史思明は、強い兵士を擁し、豊かな資金の有るところに居て、ますます驕り、好き勝手をしていた。
安慶緒の命も必要ないと、思っているように見えた。
安慶緒は、史思明のことが制御出来ないように、なっていた。
永王・りんは、渾惟明に李希言を襲わせたり、李広ちんに李成式を襲わせたりしていた。
永王・りんは、当塗に着いた。
李希言は、丹陽にいて、元景曜、閻敬之に、永王・りんを捕らえるように命じたが断られている。
そして、二人は、永王の居る呉郡に走っていた。
李成式は、将軍・李承慶を使おうとしたが、やはり断られている。
粛宗は、永王・りんが、これまで、命令を受け入れないので、中官・啖廷瑤と段喬福に、永王・りんの軍を討つように呼び寄せた。
粛宗は、永王・りんを大切に思っていた。
他の兄弟とは違う。
皇后様を母親として育った、同腹のような弟と思っていた。
だが、安祿山の乱で国が立ち行かない時に、邪魔をするような真似をされると、為政者として、辛い決断をせざるを得ない。
今は、我が儘をして良い時ではないのだ。
りんは、大人なんだ。
こんな決断をさせるりんを恨んだ。
啖廷瑤と段喬福の二人は、江南の広陵に着いた。
李成式は、馬数百頭を手にいれた。
その時、河北招討判官、司虞郎中・李銑が広陵にいた。
啖廷瑤たちと、李銑は、兄弟の契りを結び、将兵たちを求めた。
李銑の直属の部下は、騎兵一百八十人。
遂に、率いる兵たちを、領地である揚子に駐屯させた。
李希言は元景曜を将とし、李成式は李神慶を将として、その兵士たちと共に、永王・りんに降伏するように、迎えにやった。
粛宗の意向に従い、穏便に済まそうとしていたのだ。
だが、永王・りんは、丹徒太守・閻敬之を見せしめの為に殺したりした。
官軍と、派遣された親王とのいざこざ。
誰が見ても、亡命政権の内輪揉めにしか見えない。
揚子江・下流地方は、大いに驚き乱れた。
裴茂は、瓜歩州に着いた。
旗が、ピンと張られていた。
揚子江の岸辺は、輝いていた。
永王・りんと、息子、襄城王・ようは、終日、屋上にいて、壁の外を伺える穴から、周りを偵察していた。
長い時間に、永王は、つい、過去に想いを馳せた。
優しかった皇后様、大好きだった兄上、
皇后様は、貶められ、庶人として、死んだ。
兄上は、父親である陛下を恨んでいた。
兄上は、本当の母親のように慕っていた。
我?
我は実母の記憶が残っていたので、兄上ほどではなかった。
開元十三年(725年)
皇子たちの封地替えがあった。
我は、永州に封ぜられ、永王と、なった。
その時、響めきが起こった。
揚子江の南にある地であったからだ。
でも、兄上の響めきの方が大きかった。
揚子江の南の地であり、流刑囚が送られる地のある省であったからだ。
唐の“最果ての地”を持つ、省である。
我の封地は兄上よりは、北にある。
揚子江より南は、二人だけ。
兄上と一緒だから、いいや。
と、思った。
兄上、母上の事で、陛下を怒らせたと、すぐに分かった。
ちょっと惨めだった。
でも、兄上と一緒だから、と、自分を慰めた。
それから、二年ちかく過ぎた。
ある日、兄上の封地が変わっているのに、気が付いた。
揚子江の上流の北岸に近い場所だ。
衝撃は大きかった。
兄上の口から、聞いていれば、違っただろう。
兄上は、陛下に上手く取り入ったのだ。
それならば、我のことも頼んでくれればいいのに。
揚子江の南、それも岸沿いではなく、かなり奥まっている、我の封地。
たった1つ、ポツンとある我の永州。
兄上から、話があるかと待っていたが、遂に、何も聞く事はなかった。
辛かった。
この想いを何時か、返そうと思った。
でも、子はとても可愛いかった。
兄上は、皇后様のことでは、もう楯突かないのか?
と、思った。
あの子のために。
可愛い子で、うれしいだろうな。
だって、我と兄上は、二人でいたら、“不細工二人組”って、言われていたから。
容姿に関しては、二人共、まるで自信がなかったな。
この度の我の暴挙は、あの頃の鬱憤の捌け口かも知れない。
“陛下、兄上の、りんの存在を忘れたような振る舞い”
思い出す度、涙が滲む。
賽は投げられたのだ。
外では、徐々に兵士たちが城を囲んで、次々と配置されていく。
見ていた二人は、時間が経つにつれ、恐怖が増してきた。
長が恐怖する状態だ。
部下たちは、何を考えていたのか?
李広ちんは、諸将を呼び寄せ、
まだ、官軍と交戦していないから、今のうちに逃げよう。
でないと、逆臣と云うことになる。
と言って、
永王・李りんを裏切る、(肘を割き、その血を啜って誓いをたてる)儀式をした。
裏切るにしても、そろって裏切ることにしたのだ。
後ろめたさが薄らぐ。
この日、渾惟明は江寧に走り、ふう季康、康謙は、白沙の広陵で投降した。
李広ちんは歩兵六千人で広陵に走った。
永王・りんは、騎兵に追わせた。
李広ちんは言った。
我は、王の恩を感じています。
でも、これでは、戦は出来ません。
逃げて、国に帰ります。
もし、我にどうしてもと云うならば、戦をする場所を選びません。(永王・りんを相手にするとでも、云うのだろうか?)
使者は、報告した。
その夕方、李銑は、人、一人が両手で持っているのではないかと、疑われる程の多くの松明の火を見た。
揚子江から離れて見た者が、水に映った影で一つが二つに見えています、と、伝えた。
永王・りんの軍も、また、官軍と同じように感じていた。
永王・りんは、官軍が、皆川を渡るのではないかと、恐れた。
遂に、女子供、その者たちを守る兵士たちを夜に紛れて、逃がした。
夜明け、川を渡る者はいなかった。
遂に、船で、城に入った。
襄城王・ようは、兵士たちを晋陵に走らせた。
間者が言った。
襄城王が、走ったぞ。
兵士たちに、混じって走ったと、思ったのだ。
この時から、揚子江の北の軍が、一斉に進軍した。
趙侃、庫狄岫、趙連城らの者から募集した、先鋒として新豊に走る、命知らずの男二十人が、皆、酔って寝ていた。
永王・りんは、官軍がやって来たのを聞いた。
襄城王・ようと、高仙きが、逆に撃って出た。
宿場の騎馬兵が走って告げた。
趙侃たちが、馬に隠れて出ました。
襄城王・ようは、彼等と一緒ではなかった。
李銑たちは、助けに走った。
騎馬兵たちが、左右に広げた翼のように張りだし、襲いかかった。
襄城王・ようの首に矢が当たった。
襄城王・ようの軍は、遂に、負けた。
高仙き等四騎が、永王・りんの南を走り、は陽郡に着いた。
開城するように言った。
は陽郡城の司馬・陶備は、門を閉めて、開けるのを拒んだ。
永王・りんは、怒った。
門を燃やすように、命じた。
余干から大ゆ嶺に着いた。
皇甫せんの兵が追い付いた。
その場で戦い、永王・りんは、矢を受け、捕らえられた。
江西採訪使・皇甫せんが永王・りんを殺した。
襄城王・ようも死んだ。
高仙きは、逃げた。
永王・りんの参謀・薛鏐たちは、捕らえられ、殺された。
戦う相手が官軍だと、知らされていなかった参謀、李白も逃げた。
だが、いずれ捕まると、観念し、自首した。
尋陽の牢に繋がれた。
この乱の責任者である、高適は会いに行かなかったであろう。
立場が違ってしまって、お互い、とても、顔を見られない。
楽しく美しい思い出だけで、十分と思ったであろう。
ただ、粛宗は弟・りんが死んでいるので、厳しく“死刑”を口にした。
李白は、減刑の嘆願を周りに頼んだ。
当時の三人目の妻は、元宰相の孫と云うことなので、些細な関係者にも声を掛けるように頼んだ。
李白は、牢の中でヤキモキしていたであろう。
玄宗は、永王・李りんが負けた時、
庶人にして、房陵に置く。
と、していた。
ちなみに、房州は、忠州と同じ湖北省にある。
忠州の東北東にあり、距離的に近い。
玄宗の配慮が伺える。
“死”を聞いた、玄宗は、久しく哀しみ悼んだ。
粛宗は、永王・りんを、自ら世話をして育てた。
その罪を、公に宣言しなかった。
左右の者に、言った。
皇甫せんは、我が弟を捕らえた。
蜀に送らずに、勝手に殺した。
何でだ?
それ故、皇甫せんを二度と用いることはなかった。
りんの息子、攅を余姚王と、偵をきょ国王と、けんをせい国王とした。
伶と儀を国子祭酒とした。