李たんの死
粛宗は、くつろいで李泌に言った。
広平王が、元帥になるのは、年を越えそうだ。
今は、建寧王が朕の命を受け、専ら征伐をしてほしいものだ。
だが、勢力を分けるのが怖い。
広平王を皇太子に立てようか。
どうしたら良いであろうか?
対して、李泌が言った。
かつて、我は言ったではありませんか。
戦ごとは、事務引き継ぎをちゃんとすること。
直ぐに、区分して処理する事です。
家事に至るまでもです。
皇帝・位についても同じことが言えます。
玄宗様からの話を待ちましたか。
ところで、後の代、陛下が霊武で即位されたことをどう弁明なさるのですか!
引き継ぎのことです。
玄宗様から、事前に相談がなかったこと。
ちゃんとした許可を貰っていなかったこと。
いくら、玄宗様が譲位を口にされたとは言え、引き継ぎはされていません。
形式を踏んでいません。
これには、必ず人の欲があり、臣下と広平王とのわだかまりになるでしょう。
広平王は、形式を踏まない皇帝の跡を継ぐことになるのですよ。
広平王は、いまだに皇太子になることを考えていません。
李泌は、退室した。
そして、広平王・俶に話した。
広平王・俶は答えた。
これは、先生が深く考えて下さった思い遣りですね。
と言って、固く辞退した。
陛下は、未だ、朝晩の礼を奉っていません。
臣は、どんな想いで皇太子になれましょうか!
願わくば、玄宗様が都に帰るまで、待ちます。
玄宗様、立ち会いの下、認められて皇太子になります。
これが、臣の安らぎです。
と言った。
粛宗は、褒め、慰めた。
李輔国は、元々、禁苑の閑厩馬家の子であった。
初め、高力士に仕え、厩の事務をしていた。
読み、書き、ソロバンが大雑把であるが、出来たのである。
王きょうが、閑厩使の時、李輔国が馬を上手に育てるのに気付き、東宮に推薦したのである。
餅は、餅屋。
厩の子は、馬に詳しかったのである。
東宮で、皇太子に、宦官として侍ることになった。
粛宗は、信じ任せた。
李輔国は、外見は、慎ましやかな様子で無口であった。
が、内面は、ずる賢く、腹黒であった。
張良ていが、寵愛を受けているのを見て近づき、共に助けあうようになった。
建寧王・たんが、粛宗の前で、幾つもの二人の罪を謗り暴いた。
二人は、李たんを陥れることにした。
張良てい、李輔国は、あること無いことを粛宗に言った。
李泌、広平王が居ない時を狙って、讒言したのである。
李たんは、元帥の地位を得られなかったことを恨み、広平王・李俶を害そうとしています。
これは、粛宗と李泌が話していたことを聞いた李輔国が、張良ていと相談して、弱点を突いたのであった。
口の上手い張良ていと李輔国が、粛宗の様子を見ながら、煽っていったのである。
(李俶を大切に思う)粛宗は怒り、結果、李たんは死を賜った。
李たんは、明けっ広げな性格であった。
張良ていは、霊武で子を産んだ。
十二番目の皇子・しょうである。
馬嵬を発ったのが、六月十五日、
霊武に着いたのが、七月九日、
霊武までの行程をみると、
六月十七日、渭水を渡る時、馬のない人は渡れず、引き返したと云う。
霊武に着いた全員、馬に乗っていたと云う事だ。
臨月の張良ていも、馬で移動したのであろう。
(通鑑に逸話が書かれている。)
同官県に来た時、土豪の李謙の家で食事をしたと云う。
張良ていは、腹痛のため馬に乗れず、小女と一緒に李謙の家に残った。
粛宗は即位のため、人を迎えに遣わしたと云う。
何日も何をしていたのだ?
そんな事があったりで、李たんは、張良ていを我儘だと言っていたようだ。
遠慮の無い話しぶりが、このことだけでなく、語られていたのだろう。
だから、粛宗の前で、これからも、謗られたりしないように、口封じしたのだ。
産まれた皇子の足を引っ張る訳にはいかない。
李たんの死は、至徳元年(756年)八月某日と『唐大詔令集』巻二六の「承天皇帝哀冊文」に、あると云う。
七月十二日に粛宗は、即位している。
八月には、死を賜っている。
いずれにしても、手を下すのが、早かったと云う事だ。
ここに置いて、広平王・俶と李泌は、内心恐れた。
広平王・俶は、李輔国と張良ていを去らせるように謀り事をしようとした。
李泌は言った。
出来ないだろう。
広平王は、建寧王の禍を見なかったのか?
先生の憂いを取り除くためです。
李泌は言った。
泌と陛下には約束がある。
都が平定されたら、即ち、去って、山に帰る。
禍事は、もうたくさん。
李俶は言った。
先生が居なくなる。
それでは、俶は、ますます危険じゃないですか。
李泌は言った。
広平王、ただ、人の子として、“孝”を尽くしなさい。
良ていは、女子です。
感情が、曲がったり真っ直ぐだったり変わるでしょう。
その場に合わせ、流れに任せるのです。
また、何が出来るというのですか。
ある時、粛宗は、李泌に言った。
今、郭子儀と李光弼は、宰相を辞めています。
もし、長安、洛陽、二つの都を取り戻し、天下を平定したなら、無官の者を賞するのに、どうしたら、良いでしょうか?
対して、李泌曰く
昔の人は、能力には相応しい官位を与え、功績には相応しい爵位を与えました。
“漢”“魏”以来、たとえ郡や県に治められた民といえども、功績があれば、即ち、子孫に伝える爵位、封土を賜って当たり前なのです。
周から、隋まで、皆、そうです。
唐の初めは、いまだ関東地方を手に入れてなくて、だから、“爵”を封ずるに虚名を使ったそうです。
その食実封者には、絵を描いた布を給わったそうです。
貞観中、太宗様は、古い制度に返したいとしました。
大臣たちと議論をしたけれども、意見が合わず、止めたそうです。
だから、手柄を褒められた者は、官位をもった者が多いのです。
官位で賞した者は、二つの欠点があります。
非才、すなわち、役に立たない事。
権力が強くて、制御が難しい事。
だから、大官の中に、功臣が多いのです。
皆、子孫ために先を考えて計画したわけではありません。
一時の権力で利益を求め、与えられた仕事をしたわけです。
利益を求めない訳が、ありません。
先の安祿山が百里の国を持っていて、子孫に伝えるために大切にしても、問題ありません。
今後の計画のためです。
すでに、天下が平定されて、功臣に爵位と封土をもって褒美とするならば、則ち大国といえども、与える褒美は二、三百里を過ぎることはありません。
今の小郡くらいの大きさでしょう。
これが、万世における人臣の利益です。
なんと制御するのは難しいのでしょう!
粛宗は、言った。
“善いことだ。”