安祿山、死す
この年(粛宗至徳元年・756年)
北海節度使に、北海郡、高密郡、東牟郡、東萊郡の四郡を統治させた。
上党節度使に、上党郡、長平郡、陽城郡の三郡を統治させた。
興平節度使に、上洛郡、安康郡、鳳翔郡等を統治させた。
吐蕃が、威戎軍、神威軍、定戎軍、宣威軍、制勝軍、金天軍、天成軍等、石堡城、百谷城、雕巣城を手に入れた。
唐は、国内を平定しようと忙しく、とても国境にまで、手が回らないのである。
あの石堡城は、玄宗の強い希望で、哥舒翰が多くの兵士を犠牲にして手に入れた城であった。
だが、仕方が無いのである。
かつて、林邑王・范真龍は、その部下である摩訶漫多伽獨に殺された。
范氏は、殺され尽くした。
国の人は、その王・頭黎の娘を王として立てた。
だが、女子は国を治められないからと、頭黎の叔母の子、諸葛地を“環王”として、立てた。
そして、妻を女王とした。
至徳二年(757年)春、正月、
上皇・玄宗は、詔で
憲部尚書・李麟を同平章事とし、役人の要とした。
崔円に、彭原の粛宗の下に、詔を奉じて赴くようにと、命じた。
李白は、永王・李りんの下で生活していた。
口に出さずとも、周りの者が、李白に何を期待しているのか、わかる。
正月、李白は、詩を詠んだ。
“永王東巡歌”
全部で十一首ある。
どんなものか、一つだけ、記す。
その一
永王正月東出師
天子遥分龍虎旗
楼船一挙風波静
江漢翻為雁鶩池
永王様は東に向けて、正月軍隊を出される。
天子様が龍虎の旗を賜り、永王様に将軍の権限を与えられた。
永王様の船団が一度に出発すれば、風波も収まる。
(揚子江、淮水の統治権があるので、船、水軍も治めていると、云うことである。)
揚子江も漢水も、永王様がお出ましになれば、急変して、雁や鶩が遊ぶ平和な池になる。
軍隊を鼓舞するのが目的で作られた詩である。
永王・李りんも、持ち上げられて、気分がいい、正月だったであろう。
洛陽にいる安祿山は、挙兵して以来、眼が次第に見えずらくなり、この頃は、ほとんど見えなくなっていた。
また、でき物ができ、その分、苛立って荒々しくなっていた。
周りに対して、命じた事が思い通りでないと、すぐに鞭が加えられた。
時には、鞭で死ぬ者もいた。
すでに、“皇帝”を称していたので、宮中奥深くに居て、大将軍であろうと、その顔を見ることは希であった。
だから、厳荘の伝えることで、安祿山の考えを知った。
厳荘は、既に貴い役に着いていた。
だが、鞭を免れなかった。
そんな、従者のように扱われている自分を、他人に見られるのを恥じた。
どうにか、したかった。
宦官の李猪児が、最も鞭の被害を被っていた。
被害を受ける者、皆は、平静でいられなかった。
安祿山の側室である段氏は、慶恩と言う男の子を産んでいて、次男・安慶緒に代えて、その子を後釜に据えたいと思っていた。
安慶緒は、どうしたらいいのか分からず、何時も、殺されるのでないかと心配していた。
厳荘は、安慶緒に言った。
得られないならば、失わないようにするべきだ。
安慶緒は言った。
兄貴がするならば、従わない事はない。
また、李猪児に言った。
そなたは、今までも、これからも鞭を受けるだろう。
いつまで、無事でいられると!
大事を行わなければ、死なない日はない!
李猪児も承知した。
厳荘と安慶緒は、夜、兵士を帳の外に立たせた。
李猪児は刀を握り、帳の中に入って行った。
そして、安祿山の腹を斬った。
周りの者は恐れた。
だが、我慢して、動かなかった。
安祿山は、枕の傍の刀を、手さぐりで探した。
だが、分からなかった。
帳を掛けている竿を揺すった。
そして、言った。
絶対、家中の盗っ人だな。
腸が数斗流れ出し、遂に死んだ。
寝台の下、数尺ほど深く掘り、その遺体を毛織物で包んで、埋めた。
その話が漏れないように、宮中にかん口令をしいた。
一月六日、夜明け、
厳荘は、安祿山の病が急変したと、外に向かって、宣言した。
晋王・安慶緒が皇太子として立った。
皇位を引き継ぎ、皇帝となった。
安祿山を敬って“太上皇”とした。
その後、安祿山の喪を発表した。
安慶緒は、頭が悪く愚鈍で、順序づけて話が出来なかった。
厳荘は、民や家来が、安慶緒に不満を持つのではないかと怖れて、人に会わせ無いようにした。
安慶緒は、日々、思うがまま酒を呑み楽しんだ。
兄貴と思う厳荘を御史大夫、ふう翊王とし、有ること無い事、大きい事小さい事、すべて、決めさせた。
各々の将軍や役人に加爵したり、加官したり厚く遇して、部下たちの心を喜ばした。