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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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李りん、対策

もうすぐ、十一月だ。

山の上は寒い。

でも、心は暖かい。

丹丹は、この五か月、食べる物に困ったとは言えない。

いつも、三人で焚き火を囲み焼き具合をみて、食べる順番をじゃん拳で決めたり、通りすがりの町の店で、饅頭を何日分か買って、楽しい遠出のようであった。

侍女の視線を常に感じ、管理、いや、監視されていると思える環境から、本当の自由を味わっていると、思えた。

晟が居てくれて、“幸せ、”だった。

子供とは、触れあえなかった。

どんな子供か、知らなかった。

だから、丹の産んだ子供なのにと、柳潭を恨んでいた。

一人の子供を二人の乳母が取りあう。

丹の入る隙はなかった。

丹が、子供に触ろうとすると、さっきまでいがみ合ってた乳母が、急に結託する。

長安に良い思い出はない。

ふうが居なければ、どこかに行っていたかも知れない。

ふうは、にいにいが、体を支えるように布で吊り下げるようにしてくれた。

寝てばかりは、馬の体に悪いと。

だから、そのそばに、丹も、布を吊るして貰って、上で寝そべっていた。

ふうの顔を見ながら。

にいにいには、いつも感謝している。

蜀への旅も、わざと時間をかけて、楽しんだ。

さあ、陛下、いや、上皇様に、挨拶しなきゃ。

家の亭主を宜しく、と。


十一月八日、

回鶻が、帯汗谷に着いた。

郭儀子軍と合流した。


十一月十一日、

同羅と唐に背いた蛮族と、楡林河の喜多で戦い、大いに撃ち破った。

取った首三万、捉え捕虜にした者一万、河曲地方を全て平定した。


令狐潮が、一万以上の兵を従え、指揮者となって、雍丘城の北に駐屯した。

張巡は、いつも素早い。

直ぐに攻撃した。

令狐軍は大破した。

賊軍は、逃げ去った。

いつも、令狐潮は負けてばかりだ。

安祿山のお咎めがないのは、高尚が巧く、言い訳をしてくれているからだろう。

下積み時代からの友人だ。

永王・りんは、幼い時、母を亡くした。

規則通り、皇后様に育てられることになった。

その頃、皇后様の下で、今の皇帝・粛宗が育てられていた。

だから、粛宗は、兄として、りんの世話を皇后様に断り、自らした。

八才の年の差であった。

眠る時は、いつも二人で同じ布団で寝た。

だから、他の兄弟よりも仲がいいと、いえる。

玄宗に、従って蜀に来ていた。

玄宗は、(唐が都を失うような事になったのは、自分のせいだと、思ったからであろうか、)つぐないの為、皇子たち各々に、天下の総てを分け、権限を与えようとした。

諫議大夫の高適が、賛成しなかった。

けれども、玄宗は聞かなかった。

李りんは、四道節度都使となり、江陵を治めることになった。

その頃の江陵は、揚子江、淮水の租米や貢ぎ物が山積みにされていた。

李りんは、勇猛な兵士を数万人も集めた。

一日にかかる費用は莫大であった。

李りんは、後宮で育てられたので、人事の経験はなかった。

息子の襄城王・李ようは勇敢で力強く戦事を好んだ。

また、薛りゅうという者が、首謀者となり、

今は、天下が大乱だからやりましょう。

と、言った。

(目的語は、やはり、口にしにくい言葉であった。)

お金が当てに出来るのは、この南方だけです。

李りん様は、四道節度都使でその地の兵士を使えます。

数千里以上、与えられています。

その分、兵士は多いです。

“金陵”というのも縁起がいいです。

東晋の故事の如くです。

(六朝時代、東晋の楚威王は、王気の中心的な存在とする為、金を埋めたと云う。金の墓地である。だが、皇帝陵と言うように、墓地ではあるが、金に敬意を払って、“金陵”というのであろう。)

当時の、建康である。

(後の南京である。)

粛宗は、この話を聞いた。

皇帝の命令”勅”をだし、りんに、蜀に帰るように命じた。

だが、りんは従わなかった。

江陵の長使・李けんは病と偽って職を辞し、李りんの下を去り、粛宗の下に来ていた。

永王・李りんの動きに不信を感じたのだろう。

粛宗は、諫議大夫として、玄宗の考えに反対した高適を呼んだ。

そして、一緒に対策を立てた。

李りんの行動を予測した、高適の能力を認めたのである。

高適が言った。

江東の長所、短所を考えると、李りんは必ず負けます。

この高適は、あの李白、杜甫の友であった。

二人の、“国に尽くしたいと云う話”に刺激を受け、役人になっていたのである。

ただ、五十男が、無理をして役人になっても、李林甫の時代であった。

遣り甲斐を感じられなくて、辞めていた。

隴右地方に遊んだ時、哥舒翰に会い、認められ、“左驍衞兵曹”の官位をもらい、哥舒府の掌書記となった。

哥舒翰に従い潼関に行き、哥舒翰が捕らえられるのを見た。

直ぐに、玄宗の後を追い、王思礼の話と似た報告をした。

王思礼より遅く着いたのは、武人の馬の扱いには及ばなかったからであろう。

ただ、二人共、哥舒翰の名誉のために玄宗の下に、馳せたのだ。

その時、玄宗に“忠臣”とされ、侍御史となった。

高適は、玄宗と面識があった。

高適が、李白の友と知った哥舒翰は、玄宗に拝謁する時、同行させたのだ。

玄宗を喜ばせるために。

李白の友と知った時から、玄宗は、高適に好意を持ったと云える。

人柄、手腕を認められ、諫議大夫となり、金魚袋を賜った。

今度は、粛宗にも認められたのである。

十二月、

粛宗は、淮南節度使を置いて、広陵郡等十二郡を治めさせた。

その節度使には、高適を任じた。

淮南西道節度使を置き、汝南郡等五郡を治めさせ、来てんを節度使に任じた。

江東節度使・韋ちょくも使い、共に、李りんの城を囲ませることにした。

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