房かんの戦
十月四日、
令孤潮と王福徳は、再び、歩兵騎兵数万騎で、雍丘を攻めた。
張巡は出撃して、この賊軍を大破した。
斬った首は、数千にのぼった。
賊軍は、逃げ去った。
十月二十日、
唐軍と賊軍との戦いの日が来た。
便橋に着いた。
長安の西門から出て、渭川を渡る橋である。
楊国忠が、「焼くように。」と、言い、玄宗が反対した、あの橋である。
川向こうではあるが、長安の近くを、戦いの場所に選んだのである。
房かんは、兵馬元帥であった。
北軍の前鋒として、中軍で、自ら指揮する事にした。
十月二十一日、
北軍、中軍、二軍は、咸陽の陳濤斜で、賊将の安守忠に会った。
房かんは、春秋戦国時代の戦法、戦車による戦いを用いた。
戦車、
戦車が登場するのは、紀元前2500年頃、メソポタミア地方とされている。
そして中国には、紀元前1300年頃伝わったとされる。
殷の後期から、戦争に使われ出したようだ。
車輪の轟音、舞う土埃、敵にとって脅威であったであろう。
だが、国内では、恐ろしい兵器であっても、草原の遊牧民にとっては、何ともなかったようだ。。
戦車は、三人で乗る。
真ん中の御者、右側の矛を持つ兵士、左側の弓手。
戦う人が一人無駄になる。
そして、遊牧民は、その時の状態に合わせ、馬を自由に操る。
融通が利くのである。
そして、遊牧民、一人一人が弓手である。
だから、趙の武霊王(前295年没)が、負け続け、どうしても勝てないから、馬に乗るのに便利なように、遊牧民と同じ胡服を着用するように命じた。
そして、馬に乗って弓を引く練習をさせた。
技を身に付け、敵を追い払ったという。
だが、“胡服騎射“は国内では定着せず、相変わらず、戦車が巾を利かせていた。
けれども、漢が国内を統一すると、敵は長城外の遊牧民となり、趙の武霊王と同じ経験をする。
戦車では、胡服騎射の遊牧民に勝てないのである。
だから、戦車は消えて行ったのである。
戦車の戦いは、事前に日時と場所を取り決めるようになっている。
粛宗に許可された時、すでに戦車を使うことを決めていたらしく、“招討”という言い方をしている。
房かんの方は、戦車なので、設置した場所が戦場になる。
来て貰わなくてはならないのである。
だから、“招く”のである。
戦車同士の戦いの場合、事前に、お互い戦車を配置しなければならないから、決めないと戦えないのである。
だから、広い場所でなければならない。
いずれにせよ、張巡のように、突然襲ったりなんて、とは違う。
房かんは、戦車、二千乗を用意した。
だが、牛車とした。
馬が当たり前と思えるのだが、牛なのである。
牛車の間を、馬に歩かせたという。
賊軍が“進め”の、太鼓を打った。
(“退け”は、鉦の合図とされている。)
トキの声が上がった。
賊軍に追い風で、戦が始まった。
轟く太鼓と雰囲気に、牛は驚き、恐れ震えた。
御者が、幾らムチ打っても牛は動かない。
前が進まないと、後ろは動けない。
賊軍は、干し草をたばね火を付け、思うがまま牛車に投げ入れた。
乗っている車が燃え始めた。
引く牛も、乗る人も、側に立つ馬も、大いに混乱した。
皆、焼かれた。
官軍の死傷者、四万人以上。
生存者は、数千人だけであった。
この生存者のほとんどは、王思礼の軍であったと、思える。
王思礼は、戦の時、もうダメだと思えた時は、必ず自分が指揮する全軍で退く。
一人、逃げたりなぞしない。
だから、配下の者の信頼が厚かった。
王思礼の特徴は、節度使から遠征する時は、直ぐに撤退することだ。
遠征は、無駄な費用が懸かるからである。
効率よく、無駄無く、部下を指導した。
だから、王思礼の節度使は、蓄財していた。
哥舒翰が、
王思礼のお蔭で我が節度使は豊かだ。
と云った理由である。
十月二十三日、
房かんは、自ら南軍に入って戦った。
また、敗けた。
南軍の楊希文、中軍の劉貴哲は、賊軍に投降した。
房かんは、仮御所に逃げ帰った。
粛宗を見た。
粛宗は怒っていた。
房かんは、右肩を脱いで、罰を受けようとした。
李泌が傍にいて、庇った。
房かんは、上皇が選んだ宰相である。
李泌は、上皇に遠慮したのである。
李泌が、房かんに罪を問わないものだから、粛宗は、怒っていたが、許した。
粛宗は、房かんが戦に敗れ、多くの兵を失った事を恨んではいたが、李泌の手前、相変わらず目を懸けた。
この“陳陶沢の戦い”は、早く唐に帰って貰いたい長安の民の期待が大きかった。
当時、長安に軟禁されていた杜甫が、詩にしている。
最初の戦い“陳陶を悲しむ”、続く戦い“青坂を悲しむ”の、二首の詩である。
“悲陳陶”
孟冬、十郡良家の子
血は陳陶沢中の水と作る
野はむなしく天は清んで戦声無し
四万の義軍、同日に死す
群胡、帰り来たって血で箭を洗い
なお胡歌を唱して都市に飲す
都人、首を回らして北に向かって啼く
日夜、更に望む、官軍の至るを
“悲青坂”
我軍は青坂の東門に在り
天寒く馬に飲う太白の窟
黄頭の奚児、日に西に向かい
数騎、弓を彎いて、敢て馳突す
山は雪、河は氷、野は蕭瑟
青きは是れ烽煙、白きは是れ骨
焉んぞ書を附して我軍に与え
忍んで明年を待ち倉卒莫からしむるを得ん
杜甫は、幼い三男を餓死させている。
自分は囚われているから、食事には困っていない。
だが、妻と子供たちはお腹を空かせているだろう。
心の中は、その心配でいっぱいだったであろう。
家族の為にも、長安の住民同様、官軍の勝ちを待ち望んでいたであろう。
意気揚々と長安に帰ってきて、騒がしく酒を呑む賊軍を、皆どんな気持ちで見ていたか。
敦煌王・李承さいは、回鶻の可汗の陣営に着いた。
そして、可汗の娘を妻とした。
派遣された回鶻の重臣と李承さいと僕固懐恩が、共に彭原にやって来て、粛宗に拝謁した。
粛宗は、使者を厚い礼で持てなし、帰した。
回鶻の娘に“毘伽公主”の号を賜った。