塩税
至徳元年(756年)
冬十月一日、日食があった。
粛宗は、順化を出発した。
十月三日、彭原に着いた。
かつて李林甫は、宰相になった時、
諫官が、玄宗に言う事を皆、先に李林甫に告げさせた。
退室する時、また、言う所を告げさせた。
その御史の言う事は、同じ役所の長官が止めた。
李林甫の意である。
“発言を阻まれた諫言”、ここに来て、その弊害を全て改めるように、勅が出された。
また、宰相が直ぐに政事を書き記すように、粛宗は命じた。
十日でさらに、改めた。
李林甫と楊国忠の専横に懲りたからである。
彭原郡で、軍の備品が足らなくなった。
賊軍に打ち克つためにも、軍費は節約出来ない。
収入を増やすために、対策を立てるよう、大夫、宰相にまず発言させてから、御史、諫官と議論をさせた。
官爵と僧尼の権利を売ることが、決まった。
遣りたくはないが、仕方がなかった。
第五きが、彭原の粛宗に会いにやって来た。
そして、揚子江、淮水の粗米、市の軽い貢ぎ物を、揚子江、漢水を遡り、洋川に着くようにしたいと、した。
黄河は、賊軍がいて通れない。
だから、新しい経路を試しているのだろう。
その後、漢中王・うに、洋川の港から扶風まで陸運するため、軍の助けを借りれるように命じてほしいと頼んだ。
粛宗は、その考えに従った。
使える奴と思ったので、第五きを、山南などの五道度支使とした。
第五きは、塩鉄使にもなった。
塩は安い物である。
乾元元年(758年)
第五きが、塩の専売法を作った。
十文の塩を、百十文で売ったのである。
百文が税金である。
それまでは、無税であった。
このやり方で、唐は少し豊かになった。
塩税は、率を簡単に変えられる。
建中三年(782年)以前には、すでに、塩の税金は二百文になっていたと云う。
塩は、二百十文で売られていたのである。
房かんは、来客を喜んだ。
議論をし、話し合うのを好んだ。
多くの名のある人を抜擢した。
平凡な俗人、田舎びた人を軽んじた。
このことで、多くの人に恨まれた。
北海太守の賀蘭進明は、仮御所に参内した。
粛宗は、房かんを、南海太守にし、御史大夫を兼ねさせ、嶺南節度使に命じた。
房かんは、御史大夫までも兼ねたのだ。
賀蘭進明は部屋に入ろうとしたが、房かんを見て、止めた。
その様子を、粛宗は、怪しんだ。
賀蘭進明は、
房かんとは、上手くいっていないのです。
と、言った。
その上、
晋の時代の王衍は、三公になりました。
生まれは良いのですが、浮わついていました。
だから、中原が大いに乱れました。
今、房かんは専ら、現実には何の役にも立たない大言を吐いて、事実を伴わない名誉を得ています。
率いる党は、皆、上辺ばかりが華美な連中ばかりです。
誠に、王衍とよく似ています。
陛下が、宰相として用いるならば、恐れながら、国家の福ではありません。
それに、房かんは、南の成都の上皇様の補佐をしております。
陛下と諸王たちが、道やら節度使を分け持つのに、使うのですか。
陛下は、いずれ、異民族の空しい地に置かれるでしょう。
また、房かんは党の部下を多くの道に置いて、大権を使うでしょう。
それは、上皇様の一子、陛下が天下を得たから出来るのです。
則ち、己れが富貴を失わずにすみます。
これは、忠臣がする事でしょうか!
粛宗は、この話を聞いてから、房かんを疎んずるようになった。