表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
189/347

塩税

至徳元年(756年)

冬十月一日、日食があった。

粛宗は、順化を出発した。

十月三日、彭原に着いた。


かつて李林甫は、宰相になった時、

諫官が、玄宗に言う事を皆、先に李林甫に告げさせた。

退室する時、また、言う所を告げさせた。

その御史の言う事は、同じ役所の長官が止めた。

李林甫の意である。

“発言を阻まれた諫言”、ここに来て、その弊害を全て改めるように、勅が出された。

また、宰相が直ぐに政事を書き記すように、粛宗は命じた。

十日でさらに、改めた。

李林甫と楊国忠の専横に懲りたからである。


彭原郡で、軍の備品が足らなくなった。

賊軍に打ち克つためにも、軍費は節約出来ない。

収入を増やすために、対策を立てるよう、大夫、宰相にまず発言させてから、御史、諫官と議論をさせた。

官爵と僧尼の権利を売ることが、決まった。

遣りたくはないが、仕方がなかった。


第五きが、彭原の粛宗に会いにやって来た。

そして、揚子江、淮水の粗米、市の軽い貢ぎ物を、揚子江、漢水を遡り、洋川に着くようにしたいと、した。

黄河は、賊軍がいて通れない。

だから、新しい経路を試しているのだろう。

その後、漢中王・うに、洋川の港から扶風まで陸運するため、軍の助けを借りれるように命じてほしいと頼んだ。

粛宗は、その考えに従った。

使える奴と思ったので、第五きを、山南などの五道度支使とした。

第五きは、塩鉄使にもなった。

塩は安い物である。

乾元元年(758年)

第五きが、塩の専売法を作った。

十文の塩を、百十文で売ったのである。

百文が税金である。

それまでは、無税であった。

このやり方で、唐は少し豊かになった。

塩税は、率を簡単に変えられる。

建中三年(782年)以前には、すでに、塩の税金は二百文になっていたと云う。

塩は、二百十文で売られていたのである。


房かんは、来客を喜んだ。

議論をし、話し合うのを好んだ。

多くの名のある人を抜擢した。

平凡な俗人、田舎びた人を軽んじた。

このことで、多くの人に恨まれた。

北海太守の賀蘭進明は、仮御所に参内した。

粛宗は、房かんを、南海太守にし、御史大夫を兼ねさせ、嶺南節度使に命じた。

房かんは、御史大夫までも兼ねたのだ。

賀蘭進明は部屋に入ろうとしたが、房かんを見て、止めた。

その様子を、粛宗は、怪しんだ。

賀蘭進明は、

房かんとは、上手くいっていないのです。

と、言った。

その上、

晋の時代の王衍は、三公になりました。

生まれは良いのですが、浮わついていました。

だから、中原が大いに乱れました。

今、房かんは専ら、現実には何の役にも立たない大言を吐いて、事実を伴わない名誉を得ています。

率いる党は、皆、上辺ばかりが華美な連中ばかりです。

誠に、王衍とよく似ています。

陛下が、宰相として用いるならば、恐れながら、国家の福ではありません。

それに、房かんは、南の成都の上皇様の補佐をしております。

陛下と諸王たちが、道やら節度使を分け持つのに、使うのですか。

陛下は、いずれ、異民族の空しい地に置かれるでしょう。

また、房かんは党の部下を多くの道に置いて、大権を使うでしょう。

それは、上皇様の一子、陛下が天下を得たから出来るのです。

則ち、己れが富貴を失わずにすみます。

これは、忠臣がする事でしょうか!

粛宗は、この話を聞いてから、房かんを疎んずるようになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ