楽団・芸する動物、洛陽へ
八月十二日、
霊武からの使者が、蜀に着いた。
上皇・玄宗は、
我が児は、天の求めに答え、人に寄り添う。
我には、何の憂いも無い。
と、喜んだ。
八月十六日、
詔を出した。
今から、制勅を改め、誥となす。
書状では“太上皇”と、表すように。
天下の軍事、国政は、皆、皇帝の指揮を仰ぎ、上奏の後、朕に知らせるように。
また、戦に勝ち、都に上るならば、朕は、再び、国事に関わることはない。
八月十八日、
上皇・玄宗は、韋見素、房かん、崔渙に“伝国宝”と“玉冊”を、霊武に、皇帝位を伝えるものとして、奉るように命じた。
八月二十日、
史思明は、藁城を陥落させた。
かつて、上皇・玄宗は、宴のたびに、先ず、太常雅楽坐部、立部を設け、続けて、鼓吹、胡楽、教坊、府・県散楽、雑戯も設けた。
そして、山車、陸船に楽工を乗せ、行ったり来たりさせた。
また、“霓裳羽衣”の舞いを宮人に舞わせた。
この曲は、河西節度使の楊敬述が、玄宗に献じた物である。
河西節度使、
シルクロードの側にあり、西域の文化に接しやすい所である。
琵琶などの楽器も元々は、西域の物である。
音楽は胡楽の影響を受け混ざり合い、本来の中国の音楽は、消えたという。
やはり、聞いたことのないリズム、メロディは、新鮮だったのであろう。
また、霓裳羽衣の舞いは、楊貴妃が得意としたという。
それに、耳の楽しみだけでなく、百頭の馬に、首に絹のリボンを付けさせたりして装わせ、舞わせた。
馬に、口に盃をくわえさせ、健康を祝福させたり、その時の喜び事を祝わせた。
“舞馬銜杯”と、呼ばれた。
また、サイ、象を音楽に合わせ、広場で、拝ませたり舞わせたりもした。
安祿山は、見て、喜んだという。
すでに、長安を手に入れた安祿山は、命じて、楽工を捜し捕らえさせた。
そして、楽器、舞う時の衣装、舞馬、サイ、象等を皆、安祿山のいる洛陽に送らせた。
安祿山は、凝碧池で臣下の者たちと宴を開いた。
音楽が盛んに奏でられ、参加者は楽しんだ。
奏でる梨園の弟子たちは、往々にして啜り泣き、涙をこぼした。
賊兵たちは皆、刀を抜いて、睨み付けた。
楽工の雷海清は、悲憤を抑えられず、楽器を地面に投げ付けた。
そして、西に向いて激しく泣いた。
安祿山は、怒った。
“試馬殿”の前で、雷海清の四肢を縛り、四方から馬で引かせる、“支解”(両手、両足を切り離す)の刑罰を行った。
安祿山は、先ごろ、長安で、百姓が乱に乗じて庫から多くの物を盗んだと、聞いた。
三日をかけて、大がかりに探すよう命じた。
合わせて、個人の財産までも奪いつくした。
また、府県の役人に命じて調べさせ、ささいな物も見逃さなかった。
引き連れ、探させ、芋づる式に調べ、終わりがなかった。
民たちは、騒然とした。
益々、唐王室を偲んだ。