王承業の死
顔真卿は、蠟丸(秘密を守り、湿気を防ぐために、丸めた蠟の中に書状を封じ込めた物)を霊武に届けた。
そこで、顔真卿は工部尚書と御史大夫に任じられ、以前の河北招討使、采訪使、処置使も担う事となった。
合わせて、赦し文も着いた。
また、蠟丸で御礼状を届けた。
顔真卿は、河北緒郡を率い、また、河南地方、揚子江、淮水までも、人を遣わして治めた。
そこで、緒道の人たちは、粛宗が霊武に置いて即位したことを知った。
国に従う心は、益々強くなった。
郭子儀は、将兵五万人を率い、河北から霊武に着いた。
霊武の軍の威勢は、益々盛り上がった。
人は、再び天下を取る望みを持った。
八月一日、
郭子儀を、武部尚書、霊武長史とし、李光弼を戸部尚書、北都留守とした。
二人とも、同平章事はそのままであった。
李光弼は、景城と河間の兵士五千人を、北都である、太原に移動させた。
北都の留守となったのだから。
李光弼は、留まり治めなければならない。
これまで、河東節度使の王承業は、軍政が整えられていないと、朝廷から、侍御史・崔衆を、兵士を交代させるため遣わされていた。
引き継ぐために遣わされた中使・崔衆が、王承業を咎め、殺した。
崔衆は、王承業を軽く見て、侮ったのである。
李光弼は、見ていて不愉快で、心穏やかでなかった。
ここに至り、李光弼が諭し、兵士の交代をしようとした。
崔衆は、李光弼を見た。
無礼な態度であった。
また、命じられていた兵士の交代もしなかった。
李光弼は、怒った。
崔衆を召しとり、斬った。
軍の者が、怖れおののいた。
あの王承業を殺した、朝廷の使い・崔衆を殺したのだ。
王承業は張通幽に唆され、顔杲卿の上奏文を書き変え、功績を自分の物にして出世した男である。
自分の力で得た地位ではない。
やはり、軍政が整えられていないとボロを出したのだ。
そして、使いの者に軽く見られて殺されたのだ。
それなりの代価は、支払ったといえる。
回鶻の可汗と吐蕃が、賊軍を討ち、唐を助けたいと、相続けて使いを遣わした。
粛宗は、その申し出に、御礼として使者に宴を賜った。
八月二日、
玄宗は、命を下し、天下に大赦を宣言した。
粛宗の即位を祝ったのである。
北海太守・賀蘭進明は、録事参軍の第五きを、上皇様に上奏する事があると遣わした。
今、兵士を使うには、お金が急に必要です。
揚子江、淮水あたりに人が多く住んでいますので、税金を取れます。
財貨を生むでしょう。
お願いします。
仮に、我に一つの地位を与えて下されば、軍で使う物が乏しいという事が無くなります。
玄宗は、悦んだ。
すぐに、第五きを監察御史、江淮租庸使とした。
(かつては、宇文融が租庸地税使となり、租庸使と職名を変えた。その後、韋堅、揚国忠がその地位に着いた。そんな、高い地位の人が着く職位である。)
史思明が再び九門を攻めた。
八月十日、
九門を手に入れた。
怪我の恨みであろうか?
数千人を殺したという。
その後、東に兵士を引き、藁城を囲んだ。
李庭望は、蕃族、漢民族二万人以上を率いて、東の、寧陵、襄邑を襲った。
夜、よう丘城から三十里の所に陣営を置いた。
張巡は、刀剣のみの兵士を三千人引き連れ、襲った。
大いにやっつけた。
大半は、殺すか、捉えた。
李庭望は、軍を引き、夜、逃げた。