捕らわれた杜甫
七月、
杜甫は、疎開していた奉先県から、戦況が悪くなったので、より北のふう州に家族を連れて引っ越した。
長安から、(潼関に北からやって来て、東に流れを変える黄河に東から合流する)渭水を渡って、北にある親戚を頼っての避難の地・奉先であった。
それから、もっと北への移動である。
すると、もっと北の霊武で、粛宗が即位した、との噂を聞いた。
杜甫は、このまま西寄りの北に歩いていけば、いずれ、霊武に着くと考えた。
お国の為に、役に立ちたい。
出かけた杜甫は、この時、賊軍に捕まった。
どう見ても高位、高官の者には見えない。
ただ、民ではない。
長安に捕らわれた。
牢に入れられたのではなく、家に監禁された。
出入りは自由だったようだ。
ただ、見張られた。
有名な王維は、下剤を飲んで死のうとした。
次は、口の利けない振りをした。
だがバレて、囚われ洛陽に送られたという。
有名な分、安祿山も名前を知っていて、いろいろ詩を読まされたそうだ。
唐王朝に戻った時、敵に媚びた者として、罪に問われそうになったと、いう。
河北地方の諸々の郡の人たちは、なお唐を守ろうとした。
だが、常山郡の太守・王ほは賊に降伏したいとした。
将軍たちは、怒った。
だから、放した馬に毬を当て、馬を暴れさせ足で踏み殺させた。
前の太守は、顔杲卿である。
その生き様を、皆、知っている。
軟弱な太守は、許せ無かったのであろう。
その頃、信都郡の太守・烏承恩の部下に朔方節度使の兵士が三千人いた。
将軍たちは、宗仙運を長とし父老たちを、信都に遣わせた。
烏承恩を、常山に迎えて、重慎としたい、とした。
だが、烏承恩は、詔が無いからと断った。
宗仙運は、烏承恩に説いた。
常山の地は、北に燕、薊を控え、道は黄河、洛水に通じています。
そして、土門(井けい)の険があります。
足でもって、その喉を押さえ付けられています。
この頃、皇帝の車駕が、南の蜀に移動しました。
李光弼は、晋陽を守るため、兵士を収め、退きました。
常山の王太守は、軍を統制した後、城を挙げて、賊軍に投降しようとしました。
でも、民の心は従いませんでした。
今、首と体は別々です。
大将である、あなたの軍の兵士たちは、精鋭で威厳があります。
周りに敵はいないでしょう。
もし、家をもって国と成す志をお持ちなら、常山に移っていただきたいのですが。
あなた様と、最初から最後まで、互いに応じていったなら、大きなそして立派な手柄をたてられます。
もし、疑うなら、来ないで下さい。
備えはありません。
常山は、陥落したようなものです。
ただ、信都は、独り安全では無いのですよ!
烏承恩は従わなかった。
宗仙運はまた言った。
将軍は、賎しい田舎者の言葉は、納得いかないのですね。
兵は、少なくなれば必ず恐れます。
今、人は楽しく生きられません。
皆、国に報いたいと思っています。
民と結んで、競い合いましょう。
もし、懸賞を掛けて招いたなら、十日にならずとも、十万人には成るでしょう。
朔方節度使の兵士三千人余りを加えたならば、王室に関する事であっても、事足りるでしょう。
もし、重要な所を他人に授けて捨てるならば、安心な所はありません。
例えば、剣と戟を持ち倒れるならば、敗北しかありません。
烏承恩は疑い、ついに、決める事が出来なかった。
この月、史思明と蔡希徳は、将兵一万人を率いて、九門を南から攻めた。
十日程たち、九門は降伏する振りをした。
そして、城の上で、兵士に待ち伏せさせた。
史思明は、城に登った。
伏兵が史思明を襲った。
史思明は、城から落ちた。
置いてあった、逆茂木(敵の侵入を防ぐため、イバラ等、トゲのある木を並べて垣にした物)で、左脇腹に怪我をした。
夜、医者に診て貰うため、博陵に走った。