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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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乱れる長安

七月二十二日、

長安の禁苑に駐屯していた同羅、突厥の者たちが、謀反をおこした。

安祿山の養子になっていた者たちである。

同羅とは、何処の蛮族かわからない。

天宝元年(742年)の、節度使の担当の蛮族に、同羅という名前はない。

范陽節度使の担当は、契丹と奚、平盧節度使の担当は室韋と靺鞨と、なっている。

登場するのは、天宝十年(751年)の安祿山の私兵“曳落河”の話の中に、同羅、奚、契丹の投降者八千人と説明されるのが最初である。

いずれにせよ、安祿山の節度使担当の地域の蛮族だと、わかる。

そして、突厥は、天宝三年(744年)回鶻によって滅ぼされている。

だから、それまでの突厥の地は、回鶻の物となっている。

名前が出てくる、この突厥は国土を失い、安住の地を求めている突厥の一族であろう。

元の地は、吐蕃の北(シルクロードの入り口近く)であるから、兵の欲しい安祿山の誘いに乗り、東に移動して来たのであろう。

あの“阿布思”も、突厥であった。

阿布思は、突厥の滅ぶ二年前、天宝元年(742年)には、唐に帰順している。

阿布思は、勘が鋭かったのだろう。

安祿山の元に身を寄せたこともあったが、逃げ出した。

もしかして、謀反の事を聞かれされたのかも知れない。

追われて逃げ回っていたが、放浪していた理由がわかる。

帰る祖国が無かったのである。

話は戻る。

突厥の酋長の阿史那従礼の指揮のもと、二つの部族五千騎は、馬二千頭を盗んで、朔方節度使に逃げ帰ったという。

船が危機に迫る前、一番に鼠が逃げるという。

長安の様子から、国の体制が整い出している気配はない。

国が滅んだ経験から、感じるものがあったのかも知れない。

逃げ帰ったとしているが、彼らの土地では無い。

阿史那従礼はいろんな蛮族を招いて相談し、落ち着く地を得ようとした。

噂を聞いた粛宗は、宣慰する者を遣わした。

投降する者が多かったという。

これで、我が軍の威信がますます高くなる。

と、粛宗は、喜んだ。

長安を任されている、孫孝哲と安神威は、安祿山に呼ばれ、質問され、納得させることが出来なかった。

安神威は、恐怖で死んだという。

残酷な死刑を見ていたから、“明日は我が身”と、思ったのかもしれない。

孫孝哲は、今までの功績があるので、安神威とは違ったであろう。






賊軍は扶風郡に兵を送って来た。

太守の薛景仙は撃退した。

安祿山の将軍の高嵩は、河西節度使、隴右節度使の将兵たちに絹を渡して、安祿山軍に誘おうと勅書を持ってきた。

だが、大震関の郭英乂に捕らえられ、斬られた。

同羅、突厥の兵が逃げたので、長安は、大いに乱れた。

逃げた兵たちは、皇帝が皇城にいないので、長安城の警備を任されていたのだろう。

警備をする者がいなくなったので、役人は逃げ隠れするし、牢獄では囚人が勝手に出てきたりした。

京兆尹の崔光遠は、賊が現れたと欺き、孫孝哲の邸を守るために兵士を遣わした。

その間に、崔光遠と長安令の蘇震は、長安県の役人十数人と共に逃げた。

崔光遠たちも、唐の体制を知っているので、“燕”と称する安祿山の王朝は、国の形を成していないから、これは危ういと思ったのであろう。

七月二十七日、

霊武に着いた。

粛宗は、崔光遠を御史大夫とし、京兆尹を兼ねさせた。

そして、渭川から北の役人や民を呼び寄せるのに、使った。

蘇震は中丞となった。


崔光遠が逃げたとの報告を聞き、安祿山は、田乾真を次の京兆尹とした。


侍御史・呂えん、右拾遺・楊かん、奉天令・安平の崔器が、霊武に続けて参内した。

そこで、粛宗は、呂えんと崔器を御史中丞とし、楊かんを起居舎人、知制誥とした。



粛宗は、河西節度副使の李嗣業に将兵を霊武の仮御所に向かわせるように、命じた。

李嗣業と節度使の梁宰は相談して、軍をゆっくりと行進させ、今までと違ったように見せた。

指揮者と副使の地位をめぐって、争いが起きると考えたのである。

軍の行進を見た、綵徳府の折衝・段秀実は、李嗣業を罵って言った。

どうして、そなたは父親として、我の子はおっとりしていて、戦に行く者ではない、と言わないのだ。

そなたは特に昇進して、常に自分で、“立派な男”と言っているのに。

今日、見たら、すっかり、女の子ばかりじゃないか!

(李嗣業は、タラスの河の戦いで、高仙芝を守った男である。その時の功績で特に、昇進したのだろう。唐の長刀は、背の高い李嗣業から始まったと、される。)

李嗣業は、大いに恥じた振りをした。

すぐに、梁宰に、“兵を数回出してみます。”

と、言った。

出てきた兵士の働きは、素晴らしかった。

それを見て、段秀実は、自ら、副使になるとした。

そして、霊武の粛宗の元に共に出かけた。

粛宗は、今度は安西節度使に徴兵の命を出した。

行軍司馬の李栖いんは、七千人の精鋭の兵士を進軍させた。

兵士を遣わすことを、忠義とした。


勅により、扶風郡を鳳翔郡と改めた。

東にいる賊軍との戦いに、出撃しやすいように、また命令が早く伝達するようにとの、皇帝の次の駐留地の佳名への変更である。


七月二十八日、

上皇・玄宗は、成都に着いた。

従う者は、役人と六軍の兵士、合わせて千三百人であったという。

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