友・李泌
七月十八日、
玄宗は、巴西に着いた。
太守・崔渙が迎え、拝謁した。
よもやま話が、はずんだ。
かつて玄宗が、斜谷に入ろうとしたら、空がそんな時刻でないのに、霧で暗くなってきた。
知頓使で給事中の韋ちゅうが、野原で新しい熟酒一壺を得たので、側近の者四人と、跪まずいて献上した。
玄宗は受け取らなかった。
韋ちゅうは、恐れた。
毒酒と、疑われたのではないかと、思ったのである。
他の器に注ぎ、満たし、自分の前に置いた。
玄宗は言った。
卿は、我が疑ったと思ったのだな。
我が世の始まったころ、かつて、大酔いして、人、一人を害した。
我は、その事を悼み、よって諫めとしたのだ。
あれから、四十年におよぶ。
未だに、酒が甘くない。
高力士、近臣を指さし、
この話は、皆、知っている。
卿を欺いているわけではない。
その場にいた崔ちゅうの従者たちが聞いていて、喜ばない者はいなかった。
部下たちは、主が疑われたかと、心配していたのである。
玄宗は、こんな話をして、酒の配慮を婉曲に断ったのである。
玄宗との話で、房かんは、また、人を推薦した。
その日、韋見素を門下侍郞とし、同平章事とした。
左宰相としたのである。
かつて、京兆に住む李泌は、幼い時から、能力が聡く明らかと評判であった。
玄宗は、忠王と遊ぶようにさせたいと、した。
だが、まだ、李泌は年若く、しばらく待った。
忠王より、十一才年下だったのだ。
忠王が皇太子となり、李泌も成長し、忠王に皇太子の心構えを上奏した。
玄宗は、李泌に官職を与えたいとしたが、李泌は断った。
そこで、皇太子と官位のない庶人として、交流させた。
皇太子は、学識の豊かな李泌を、いつも先生と呼んだ。
皇太子にとって、気の置けない友であったのである。
そんな二人を見て、楊国忠は、李泌を嫌った。
何年か前に、李泌が作った詩に難癖を付け、玄宗に上奏した。
李泌は、燭春に遣らされた。
その後、隠居して、潁陽に住んだ。
その李泌を、粛宗は、馬嵬から北に向かった時、来るようにと、使いをだした。
そして、霊武で会った。
粛宗は、大喜びした。
かつて、皇太子になった時のように、出かける時は並んで馬に乗り、寝る時は寝台を向かい合わせにして、有ること、無いこと、大きな事、小さな事、皆、相談した。
李泌が言う事に、従わないことが無かった。
将軍、大臣の進退まで、一緒に議論した。
粛宗は、李泌を右相(上の位の宰相)にしたいと、した。
李泌は、固く辞退した。
李泌の言う事には、
陛下は、友として遇して下さいます。
それは、宰相より貴いのです。
どうして、その心を止めなければいけないのです。
粛宗は、それ以上言わなかった。