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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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皇太子即位

裴冕と杜鴻漸は、皇太子に馬嵬での玄宗の、“皇帝位に即位するように”との命令に従うように、上奏した。

皇太子は、許さなかった。

裴冕らは言った。

将士は皆、関中の人です。

日夜、帰りたいと思っています。

殿下に従い、危なく険しい、遠い辺境にまでやってきました。

僅かばかりの手柄に、褒美を頂きたいからです。

もし、ひと度離散したなら、再び集まる事は無いでしょう。

願わくば、殿下に、民の心が従うようにしていただきたいのです。

国家の将来の為なのです。

五回、上奏した。

最後に、皇太子は、これを許した。


七月十二日、甲子の日、

粛宗は、霊武城の南の櫓で即位した。

臣は、足踏みして喜び踊り、粛宗は、むせび泣いた。

玄宗のことは、“上皇天帝”と、尊んで呼ぶことにした。

天下に大赦を施し、“天宝”から、“至徳”と、改元した。

新しい皇帝、粛宗の下で、人事が発表された。

杜鴻漸、崔いは、中書舎人となり、裴冕は中書侍郞、同平章事、すなわり、宰相となった。

改めて、関内采報使を節度使とし、安化郡も治めさせるようにし、前の浦関防禦使の呂崇賁を任じた。

陳倉の県令・薛景仙を扶風太守と防禦使とした。

隴右節度使・郭英乂を天水太守と防禦使とした。

この時、辺境の精鋭の兵士は、皆、賊軍を討つために、選ばれて、関中に入っていた。

ただ、残りの老人と若輩者の兵士が辺りを守っていた。

文武の役人は、三十人に満たなかった。

草に被われた地に朝廷が立てられ、制度は作られたばかりであり、頼りにされる武人は、驕りたかぶっていた。

その武人の一人、大将である、管崇嗣が朝堂にいて、宮殿に背中を向け(お尻を向け)皆で笑い、しゃべっていた。

監察御史の李勉が、不敬な態度を弾劾して、管崇嗣を役人に捕らえさせた。

粛宗は、特別に許した。

武人には、あまり厳しく出来なかったのである。

我には、李勉が居てくれる。

朝廷の尊さがこれで始まる。

と、言って喜んだ。

李勉は、李元懿の曾孫である。

鄭王・元懿は、高祖の子である。

李一族と言える。

十日ばかりすると、帰順するものが増えてきた。


張良ていは、巧妙で悪賢いたちであった。

粛宗の気持ちを読むのが巧みであった。

粛宗に従って、朔方節度使に来ていた。

その時、兵士は、僅かしかいなかった。

張良ていは、寝る時はいつも、粛宗の前に居るようにしていた。

張良ていは、言った。

敵が来たなら、とっさの時、私が体で受けます。

殿下は、その後、逃げて下さい。

粛宗は、言った。

敵の侵入を防ぐのは、夫人のする事ではない。

そんなことは、考えなくていい。

霊武に着き、子を産んだ。

粛宗の十二番目の男の子であった。

しょうと名付けられた。

男の子が産まれたことで、張良ていに、夢が生れた。

皇太子位は、まだ空いたままである。

我が子にも、可能性があると思った。

三日して起きてきて、兵士の衣を縫った。

粛宗は、止めさせた。

そして、言った。

そんな事はしないで、そなたは、自分の体を大切にして、養生する時だ。

粛宗は、この事から、張良ていをますます慈しむようになった。

確かに、良妻で、女子の鑑と言える行為である。


七月十五日、

玄宗は、詔を出した。

皇太子・亨をもって、天下兵馬元帥とし、朔方節度都使、河東節度都使、河北節度都使、平盧節度都使、とし、南にある長安、洛陽を取るようにと、した。

(七月十二日に、皇太子が霊武城で、即位したのに、玄宗は、七月十五日に、詔を出した。お互い別れてから、道は遠く離れ、蜀では、粛宗の即位が、まだ知られていなかったのである。)

続けて、御史中丞の裴冕を左庶子を兼ねさせるように、隴西郡司馬の劉秩を房かんの推薦で右庶子に、試しにその職に付かせて見ることにした。

英王・りんを山南東道、嶺南方、黔中、江南西道の節度都使とした。

少府監・竇紹を、それらの“伝”(宿場で中継ぎをして、旅客や手紙を送り届ける事で、その担当の役職)とした。

長沙太守・李けんを都副大使とした。

盛王・きを、広陵大都督とし、江南東道と淮南、河南などの、路節度都使とした。

前江陵都督府長使・劉彙をもって、伝とした。

広陵郡長使・李成式を都副大使とした。

豊王・きょうを武威の都督とし、河西、隴右、安西、北庭らの、路節度都使とした。

隴西太守済陰のとう景山をそれらの伝とし、都副大使とした。

緒王を都使としたが、その地には赴任しなかった。

副大使がその役を担った。

必要に応じて、兵士、馬、鎧、兵器、食糧、賜り物をその路の者に申し述べさせた。

その諸々の路の節度使のかく王・巨を前の本節度使から充てた。

その役職に、官属と本路郡県官を置いた。

任じるに当たり、自ら選らばせた。

上奏で聞いたことは、全て

書き取らせた。

この時、李き、李きょうは赴任しなかったが、李りんは、兵営に赴任した。

山南東道に節度使を置き、襄陽郡、南陽郡、漢東郡、淮安郡、武当郡、房陵郡、安陸郡、安康郡、上洛郡の九郡を治めさせた。

五府経略使を昇格させて、嶺南節度とし、南海ら二十二郡を治めさせた。

五渓経略使を昇格させて、黔中節度とし、黔中ら諸郡を治めさせた。

江南を、東西の二道に分け、東道を余杭に治めさせ、西道を予章ら諸郡に治めさせた。

この制度のもと、どんな車でも乗る所があるということが、知られ始めた。




安祿山は、孫孝哲を使って、崇仁坊の礼会院に住んで居て、逃げられなかった者たち、叡宗の娘で玄宗の末の妹の霍国長公主、永王妃候莫陳氏、義王妃閻氏、陳王妃韋氏、信王妃任氏、ふ馬都尉たちの心臓を抉り出し、殺させた。

安祿山の長男・安慶宗をそれでもって、祀ることとした。

安慶宗は、安祿山が挙兵した時、殺された。

慶宗の死を知った時、攻略した陳留城の兵士を、投降したにも関わらず、全員殺させた。

それだけでなかった。

楊国忠、高力士の一派と安祿山を嫌っていた者たち、おおよそ八十三人を皆、鉄のこん棒で頭を打ち割り、殺した。

流れた血が、街に満ちた。

生臭い匂いも満ちた。

七月十七日、

皇孫、郡主、県主、二十人以上を殺した。

残酷な殺し方に、ますます長安の民は、安祿山を嫌った。

そして、唐王朝を慕った。

賊軍を撃ち破り、早く長安に帰ってくれるよう願った。


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