孫孝哲と厳荘
安祿山は、西に向かって行軍するのを、急に辞めた。
潼関を落とした崔乾祐に使いを送り、凡そ十日ほど、その地に留まるように命じた。
哥舒翰が、各地の将軍に、投降を勧める手紙を送ったので、その返事を待つための時間を、ゆとりをもって設定したのであった。
“戦わずして勝つのが、最高の勝ち方”だと、孫子は云う。
孫子の言葉通り、上手くいけば、我が軍を消耗することなく、勝てる。
これも、哥舒翰からの受け売りだ。
安祿山は、手紙の返事を思い浮かべては、落ち着かなかった。
だから、やるべき事を考えた挙げ句、吉温の功績に報いなければと、思いついた。
吉温とは、兄弟の絆を結んでいる。
吉温の子供を捜させた。
十才にもならない男の子が、一人いた。
河南府参軍に任じた。
銭や絹を給った。
哥舒翰の話は、絵に描いた餅で終わった。
“騙された”と、思った。
向こうが一枚上手だったのだ。
まだ、敵は各地にいる。
長安には行けない。
范陽節度使に、何時でも行けるように、安祿山は洛陽に腰を据えた。
孫孝哲に、将兵を従え遣わし、長安に入城させた。
張通儒を西京留守とし、投降してきた崔光遠を(安祿山の懐の深さがわかるであろう、と)そのまま京兆尹にした。
将兵たちを禁苑に駐屯させ、安忠順に管理させ、関中の重鎮とした。
長安入城の先頭に立った孫孝哲は、安祿山の寵愛を受け、事につけては、もっぱら用いられていた。
孫孝哲の母親は、安祿山とねんごろな仲であったのだ。
だから、孫孝哲は、他の者と違って、馴れ馴れしく安祿山と接した。
普通、兵士たちは、針と糸は、常に携帯している。
戦いでは、着ている衣は、よく破れる。
だから、従軍を機に、男と言えども、針仕事に精を出さなければならなくなる。
孫孝哲は、その針仕事が得意だった。
安祿山のもて余す大きな体は、やはり、衣をよく破いた。
そんな時、孫孝哲が、おもむろに針と糸を出し、繕ったのであった。
安祿山は、大喜び。
遂には、孫孝哲が縫った衣を着るようになった。
孫孝哲が縫った衣は、着て戦に出ると、負け知らず。
縁起がいいとされた。
寵愛するわけである。
この孫孝哲と、安祿山の寵愛を争ったのが、厳荘である。
高尚と共に図讖を読みといて、安祿山に謀叛を勧めたのが、厳荘である。
安祿山は、当然、孫孝哲、厳荘を贔屓にした。
関中に送った将兵たち、張通儒ら文官たち、皆を、孫孝哲の管理下に置いた。
孫孝哲は、とても贅沢で、思い通りに死罪に処した。
だから、仲間の賊軍にも畏れられた。
安祿山は、文武百官、宦官、宮女等を捜し捕らえるよう命じた。
そして、数百人になると、兵士に護衛させ、もっぱら洛陽に送らせた。
王族、貴族、将軍、共に、玄宗に従って付いて行った者の家族で、長安に留まっている者は、嬰児にいたるまで殺した。
陳希烈は、晩年、玄宗の恩寵を失い、宰相を辞めさせられたので、玄宗を恨んでいた。
そこで、(大きな役職で用いられなかった)張均、張き等と、賊軍に投降した。
張均、張きは、あの張説の息子である。
安祿山は、陳希烈と張きを大臣にした。
同じように投降した朝廷の役人、すべての者に役職を授けた。
ここに於いて、賊軍の勢いが大いに盛んになった。
西は、けん山、隴山まで、南は、揚子江、揚子江に北から流れ込む漢水、その漢水の東側、北は、黄河の北側の半分、までを支配した。
そうは言っても、賊軍の将軍たちは、将来を考えることも無く、粗野で荒々しく、長安を手に入れ、願いは叶ったとばかり、日夜、酒に浸り、もっぱら、音楽、色事、賭博に明け暮れ、毎日を楽しく暮らし、玄宗の向かった西に、追いかけて行く気などなかった。
だから、皇帝は、安心して蜀に行けたし、皇太子も、追われ、迫られる心配もなく、北に行けたのである。
李光弼は、まだ投降しない博陵を取り囲んでいた。
そんな時、潼関が陥落したと、聞いた。
囲みを解いて、土門のある南に向かった。
史思明が後を追って来た。
李光弼は、一旦退き、攻撃した。
そして、郭子儀と共に兵士を引き連れ、土門に入った。
常山太守の王ほは景城に留まり、河間を練兵に囲ませ常山を守っていた。
顔真卿に、営州から船で書状を送って来た平盧節度使・劉正民が、書状通り、范陽節度使を襲おうとした。
だが、范陽に着く前に、史思明が兵と共に来て、逆に攻撃して来た。
潼関が陥落したことを、遠い長城の外にいて、知らなかったのであろう。
タイミングが悪かったのである。
李光弼さえ、兵を退いたのである。
劉正臣は、大敗した。
妻子を棄て、逃げた。
兵士たち、死者七千人以上であった。
顔真卿は、河北節度使の李光弼が土門を出たと、聞いた。
だから、軍を退いて、平原に返した。
そして、李光弼の命令を待った。
郭子儀と李光弼が、西から土門に入ったと聞いた。
帰ってきたのだ。
顔真卿は、また、河北の決められた場所に軍を置くようにした。