益州から、成都へ
六月十八日、
玄宗は、剣南節度使代理の崔円を剣南節度使の副大使とした。
昇平と共に捕らわれた珠珠は、毎日、閉じ込められた一室で、寝ているうちに置かれていた物を食べ、生きていた。
扉は、外から板を打ち付けられて、どこからも、逃げられないようにしてあった。
なんで、自分がこんな目にあうのかわからなかった。
それに、何日もたったので、体が汗まみれで、気持ちが悪かった。
昇平は、退屈して、機嫌が悪かった。
思い付く限りの遊びをした。
なだめるのが、やっとであった。
そして今日、外で声がした。
東の方に、土埃が立っているぞ。
あわただしく、扉の一部が壊された。
外には、走り去る音がして、人の気配はなくなった。
珠珠にも、わかった。
賊軍が来たのだ。
どうしたら、いいのか?
昇平も含め、男装をしていて良かった。
でも、まずは顔と体を洗いたい。
ふらふらと、外で井戸を探した。
ついでに、衣をもっと汚した。
炭小屋を探して、二人とも、手や顔を汚くして、髪も、整えなかった。
そして、そのまま、炭小屋に潜んでいた。
立派な屋敷であった。
一体、誰かの屋敷なのか?
暫くすると、ドヤドヤと音がして、賊軍の者たちが、入ってきた。
居室を物色している。
喜びの声が、聞こえてきた。
ここの屋敷は、男たちがいたから、盗人たちが入れなかったので、金目の物が多いのだろう。
小屋の戸が開かれた。
お~い、ここに男と子供がいるぞ。
男たちが、集まって来た。
昇平を抱きしめながら、珠珠は涙を流した。
六月十九日、
玄宗は、扶風を出発して、陳倉に泊まった。
皇太子は、烏氏県に着いた。
ぼう原郡の太守・李遵が、烏氏までわざわざやって来て、恭しく出迎えてくれた。
そして、衣と干し飯を献上した。
旅立ってから、七日目だ。
衣も食糧も、ありがたかった。
それから、ぼう原に着いた。
兵士を募集したところ、数百人が集まった。
この日は、平涼まで行軍して、監牧地で馬を見た。
数万頭の馬を手に入れた。
また、兵士を募集した。
五百人以上を得た。
軍勢は、少しながら振るってきた。
六月二十日、
玄宗は、散関に着いた。
付き従う将士たちを六軍に分けた。
そして、頴王を先に、剣南節度使に遣わした。
寿王・瑁は、六つに分けた軍を従え、頴王に続いた。
六月二十四日、
玄宗は、河池郡に着いた。
剣南節度副大使・崔円が、蜀郡から、皇帝の乗る車駕を迎えるために、来ていた。
あらかじめ、代理から、副大使に昇進させていたので、気分よく、迎えに来たのであろう。
そして、
蜀の地は豊かで多く収穫できますし、兵士たちも意気盛んです。
と、述べた。
玄宗は、大喜びした。
連れてきた兵士たちが、楊国忠の部下たちの反意を心配していたが、杞憂だったと、分かったからだ。
その日、崔円を中書侍郞、同平章事、すなわち、宰相とした。
崔円が、蜀郡の長史であったからだ。
皇帝陛下の居るところ、ここ蜀に都が移るのである。
この地、益州は、玄宗が移り住んでから“成都”と名を変えたのである。
隴西公・うを漢中王、梁州都、山南西道采訪・防禦使とした。
李うは、李しんの弟である。
李しんは、寧王・憲の嫡長子である。
玄宗は、兄・寧王に感謝していたので、息子たちを優遇しているのだ。
王思礼は、平涼に着いた。
河西節度使では、この期に乗じて、力を伸ばしたいと、周りに住む蛮族たちが争っていると聞いた。
裴冕が節度使に次ぐ地位にいるといっても、文官であるし、その地出身でないから、敗残兵たちをまとめられないのだろう。
また、玄宗を追って、行在所を訪れた。
初め、河西節度使でそれなりの地位を得ていた各々の蛮族は、その地の都護であり、皆を従えていた哥舒翰が亡くなったので、自立しようと、お互い攻撃しあっていたのである。
彼らは、都護である哥舒翰に従って、戦場の横を流れる川の北岸にいて、死なず、また、火抜帰仁と共に降伏しなかった者たちである。
跡を継ぐ権利があると、言えば、あるだろう。
王思礼は、状況を伝えた。
王思礼は、良い武将である。
しかし、高句麗から流れてきた者の子孫である。
漢人ではない。
蛮人たちは、長として認めないだろう。
だが、蛮人の節度使は、玄宗の方で懲り懲りである。
玄宗は、河西兵馬使である、周泌を河西節度使とした。
隴右兵馬使のぼう元耀を、隴右節度使とした。
都護・思結進明を、各々の部落の者を招いて、その地の鎮とした。
そして、王思礼を、都知兵馬使とした。
六月二十六日、
扶風の民、康景龍たちが、みずから指揮して、賊軍の宣慰使・薛総を討ち、二百以上の首を取ったとのことであった。
六月二十八日、
陳倉の県令・薛景仙が、賊軍の将軍を殺し、扶風を守ったという。
この頃になると、蜀の方まで、賊軍が進出して来たのがわかる。