場嵬での別れ
六月十五日、
玄宗は、まさに馬かんを出発しようとしたが、楊国忠も魏方進も死んだので、朝廷の役人は韋見素しか居ないことに、気がついた。
そこで、韋がくを御史中丞と置頓使に任じた。
武将や兵士たちが、
楊国忠が謀叛を起こしたので、殺しました。
その配下の武将も役人も、皆、蜀に居ます。
行っていいものか、どうか。
どういたしましょうか。
と、不安がった。
ある者は、隴右節度使、河西節度使に行くのがいいのではと、請うた。
ある者は、霊武の朔方節度使がいいのではと、請うた。
ある者は、太原の河東節度使がいいのではと、請うた。
また、ある者は、長安に帰るのがいいのではと言った。
玄宗の気持ちは、蜀に行きたいと思っていたが、皆の意見と違っていたので、ついに、口に出すことはなかった。
韋がくは、
長安に帰るならば、賊軍を防ぐ備えが要りますが、今、兵が少ないので東に向いては行けません。
とりあえず、扶風に着くまでに、進退をゆっくりと考えましょう。
玄宗は、皆に聞いた。
皆は然りとしたので、従うことにした。
出発しようとしたが、長老たちが道を塞いで、出発しないで留まるように、請うた。
長老たちが言うことには、
宮殿は、陛下のお住い、
寝陵は、陛下のお墓です。
今、これらを捨てて、何をなさりたいのですか?
玄宗は、しばらく手綱を押さえていたが、皇太子に、自分が去った後で、長老たちをなだめるように命じた。
そして、扶風に向かった。
長老たちは、
皇帝陛下は、留まらないとされました。
我々の願いは、皇太子様の下、子弟を従え、東の賊軍を討ち破り、長安を取り戻すことです。
もし、殿下と皇帝陛下が、蜀に行かれるのであれば、中原の百姓は、誰を主としたらいいのでしょうか。
しばらくの間に、民衆が数千人になった。
皇太子は、動けなかった。
そして、言った。
皇帝陛下は、危険を侵して遠くへ行かれている。
我は、朝も夕も、左も右もお側を離れずにいられない。
それに、まだ、面と向かって別れの挨拶が出来ていない。
さらに、我が、進むのを止めて留まるようにすると、申し上げなくては。
泣きながら、馬を西に進めようした。
建寧王・たんと東宮の宦官・李輔国が、馬のおもがいを掴み、諌めた。
謀叛人の蛮人は、宮殿を侵し、天下を壊しています。
人の情に頼らないで、何をもって、再び国を興そうとするのですか?
今、殿下は、皇帝陛下に従って蜀に入られます。
もし、賊兵に桟道を焼かれたら、すなわち、中原の地は、何もしないまま賊に渡すことになるのですよ。
人の情が離れてしまってからでは、もう、心を合わせることは出来ないのです。
たとえ、ここに帰りたいと思っても、できないのですよ。
今、出来る事とは、西北を守っている兵たちを集め、河北で力を合わせて東の逆賊と戦っている郭子儀、李光弼を呼び寄せ、長安、洛陽の両京を再び手に入れ、天下を平定し、社稷の危機を再び安らかにして、壊された宗廟を作り直し、宮殿の掃除をして皇帝陛下をお迎えすることです。
これが大きな孝行ではないでしょうか!
なぜ、女子どものように取るに足らない世話がいるのですか!
広平王・俶もまた、皇太子に留まるように、勧めた。
長老たちは、皆で皇太子の馬を抱きかかえた。
皇太子は、先に進めなかった。
皇太子は、広平王・俶に馬で玄宗に事情を伝えに行かせた。
玄宗は、手綱をとり、皆で皇太子を待っていた。
随分来ないので、様子を見に人を遣わせた。
帰ってきて、様子を伝えた。
玄宗は、
ああ、決まったな。
と、言った。
その後、軍の二千人の兵士と、飛龍厩の馬を皇太子に従うように、分けた。
そして、皇太子に従う将士に、
皇太子は、仁に厚く、孝行者だ。
宗廟を奉れるように、そなたたち役人が良く補佐をしてやってくれ。
と、言った。
また、皇太子に諭して言った。
しっかり励みなさい。
我のことは心配しなくていい。
西北の蕃族は、我が良くしているから、必ず、そなたの役に立つであろう。
そして、東宮の妃たちを皇太子に送り遣わした。
その上、位を伝えたいと詔を出したが、皇太子は受けとらなかった。
皇太子は、玄宗の伝言を聞いて、南に向かって号泣した。
李俶は長男、李たんは三男。
二人共、皇太子の息子である。