予期せぬ別れ
天宝十五年(756年)
六月十二日、この日、百官の内、朝会に来た者は、十人のうち一、二割の人しか居なかった。
玄宗は、勤政楼から、“制”を下した。
親征をする。
と、
聞く者は、誰もその言葉を信じなかった。
(これで三度目だ。どうせ口だけだ。)
だが、京兆尹の魏方進を御史大夫、置頓使(天子が行幸の際、宿駅などを設営する官)とした。
京兆少尹・霊昌の崔光遠を京兆尹とし、西京留守とした。
将軍・辺令誠に宮中の鍵を管理させるようにした。
剣南節度大使・潁王きょうを任地に赴任させ、その地方で蓄え備えるように命じた。
脱出するのに、それなりの準備は必要だ。
“親征”は、ちょうど良い隠れ蓑だった。
この日、玄宗は、興慶宮から大明宮に移動した。
次の日、皇城から出やすいようにと、考えてのことである。
その夕方、龍武大将軍・陳玄礼に命じて、近衛の六軍を整理させた。
軍の者たちに銭と絹を厚く賜り、厩舎の馬を九百匹以上選ばせた。
外の人は皆、なにも知らなかった。
広平王・俶は、家族全員を確めた。
妻、沈氏、独孤氏、裴氏、張氏、薛氏、
崔氏は、母上が昨日迎えに来て、貴妃様といると、思います。
と、珠珠が言った。
皆、身の周りの物は持っているな。
目で、子供たちを確めた。
九人いるな。
みんな、乳母に世話されていた。
余計な物は駄目だが、必需品はなければ、自分が困るからな。
蓮蓮、丹丹がいない。
丹丹は、知っているのだろう。
ええ、伝えたわ。
礼会院の方にいるのか?
二、三日前、ふうを帰したから、見に行ったのだと思う。
あんな老馬、歩くのも覚束ないのに、どうして帰したんだ?
紫玉が、迷惑だと、言ったの。
連れにいかねば。
だが、蓮は、陛下に“側から離れるな、”と言われているのだ。
どうしよう。
温か、楽を遣わそう。
でも、温も楽も、丹丹の住んでる処、知らないわ。
部屋が少ししかないから、入ってこられるのを嫌がるの。
だから、いつも、門の所で待たすの。
蓮は、行けない。
宦官が、あそこで見張っているだろう。
陛下がすぐに帰るようにと、命じたからだ。
どうしよう。
蓮蓮、珠珠が行ってくる。
駄目だ。
蓮が落ち着かない。
じゃ、丹丹どうなるの?
珠珠に行かせて。
珠珠、丹丹を大切にしなければ、罰が当たる。
母上、どこ行くの?
ちょっとね。
昇も行く。
昇平は、父上といなさい。
いや~、母上がいい。
二人でなんて、駄目だ。
二人共、ここに居なさい。
蓮蓮、丹丹、どうするの?
では、腕っぷしの強いのを、付けるから、頼めるかな?
ええ、早くして。
昇は?
母の衣を握り、泣きそうである。
俶が、言った。
少しのことだが、男の子の衣に着替えなさい。
その方が、安心できる。
じゃ、珠珠も、
好きにしなさい。
昇平の身支度もあるのだ。
早くしなさい。
ええ、急ぐわ。
馬車までは、行けない。
宦官に邪魔されるだろう。
早く帰ってくれ、頼む。
待ってる。
珠珠は、かつにおどけて手を振り、
すぐに、帰るから、
と、言った。
部屋から出る時、珠珠は、蓮蓮を振り返った。
かつの手を握っている。
蓮蓮の心配そうな顔の後ろで、四人の妻たちが、談笑していた。
その中の独孤氏と目が合った。
珠珠は、昇平と二人、男装をして、馬車に向かった。
いかにも、強そうな男子が二人、馬車の所で、腰を屈め、挨拶をした。
広平王様から、伺っております。
と、声を掛けた。
新しく入った人?
行き先は、崇仁坊ですね。
ええ、礼会院よ。
楽が、答えた。
馬車に、珠珠と、昇平と、温と楽の四人が、乗った。
帰りは、私たち歩きますから。
悪いわね。
珠珠様も、昇平様も、男装、よくお似合いです。
結構、時間かかるのですね。
温が、外を覗いて見て、
珠珠様、外の様子が違います。
おかしいです。
珠珠が、馬車の前の垂れ布を開けて、停めるように言った。
荒々しく、垂れ布は閉められた。
四人は、顔を見合せた。
温と楽が、垂れ布をめくり、後ろから、首を絞めたり、蹴ったりした。
二人は、簡単にのされた。
馭者をしてない男が出てきて、温と楽を乱暴にしばった。
馬車が揺らいだ。
立ってた男は、倒れそうになった。
おまえたちは、後だ。
恐怖の余り、声など出なかった。
不安が募った。
震える体で、昇平を膝に乗せ、抱きしめた。
しばらくすると、向きが変わり、どこかに入って行った。
男が、馬車に入ってきて、体を絞めあげ紐で縛った。
口には、汚い布がねじ込まれ、頭に袋をかぶせられた。
昇平が心配であった。
わ~わ~泣く声は、すぐに聞こえなくなった。
担がれて、どこかの部屋に入ったようであった。
床に置かれたと、思った。
人の気配があった。
這いずり廻ってみると、昇平がいた。
小さい体と、髪の香りでわかったのだ。
安心すると、いつの間にか、寝てしまった。
六月十三日、夜明け前、
玄宗は、楊貴妃、その姉妹、皇子、公主、妃、皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄礼、および、親しい宦官、宮人たちと、禁苑の西にある延秋門を出た。
妃、公主、皇孫で、宮殿の外にいた者は、去るにおよび、捨て置かれた。
玄宗の側にいる広平王・俶は、十五才のかつの手を握りしめ、うつ向き、涙を流しながらの追従であった。