哥舒翰の策
哥舒翰は、関西駅に着いた。
馬を変えるためである。
掲示板に、“兵士募集”の張り紙をした。
戦の敗けを見極めた途端、馬を走らせたのは、潼関に出来るだけ早く帰って、守りの体制に入ろうとしたからである。
遅れれば、賊軍に先を越される心配があった。
帥の自分がいなければ、指揮を執る者はいない。
早く潼関に帰らなければ。
蕃将の火抜帰仁たちが、百騎以上で駅を囲んだ。
駅に入ってきて、哥舒翰に言った。
賊軍が来ます。
哥舒公、馬にお乗り下さい。
哥舒翰は、駅を出て、馬に乗った。
火抜帰仁をはじめとして、周りにいる将兵が馬から下り、皆で叩頭して、言った。
哥舒公は、二十万の兵士を一つの戦いで失ないました。
何の面目があって、再び、陛下に会えるでしょうか!
哥舒公は、高仙芝、封常清のことを考えないのですか?
お願いします。
哥舒公、東(安祿山の所)に行きましょう。
哥舒翰は、
それは、出来ない。
として、馬から降りようとした。
火抜帰仁は、馬の尻尾で作った紐で、その足同士を馬の腹に回して縛った。
体の自由がきかない哥舒翰は、抵抗出来なかった。
将兵たちも、哥舒翰に従う者はいなかった。
皆で、哥舒翰を捕らえて東に向かった。
これも、高仙芝、封常清に対する、玄宗の不当な仕打ちが、引き起こした結果であると、哥舒翰は思った。
使いものにならない兵士を与え、戦に敗けたと、責任を取らして殺し、(まあ、玄宗に、期待を持たせ、その期待を裏切ったと思わせたのが、いけなかったのだろうが。)
高仙芝に至っては、どうせ焼くならと、兵士たちに租米を渡したのを、調べもせず、“盗んだ”と、汚名をきせて殺した。
精一杯頑張った者を、同じ武人として、正当に評価して欲しかった。
武人だれしも、我と、同じ思いをしていたのだと、知った。
それが、潼関を守るために、帰ろうとしない理由なのだろう。
東に向かって行くと、賊将・田乾真に会った。
遂に、(予定通り)投降した。
洛陽に送られた。
安祿山は、哥舒翰に言った。
汝は、いつも、我を軽く見ていた。
今は、どうかな?
哥舒翰は、地にひれ伏して答えた。
臣の眼は、聖人を見分けることが出来ませんでした。
今、天下は、未だ平定されておりません。
李光弼は常山に居て、(呉王)李ていは東平に居て、魯けいは南陽に居ます。
陛下、臣はここに留まり、その者たちに陛下の下に来るように、手紙を書きます。
そしたら、幾日もたたないうちに、皆、投降するでしょう。
安祿山は、大喜びした。
そこで、哥舒翰を司空とし、同平章事とした。
厚遇である。
そして、火抜帰仁に言った。
汝は、主人に叛いた。
忠でもなく、義でもない。
取り押さえ、斬らせた。
火抜帰仁は、哥舒翰を手土産にして、良い地位を得ようとしたが、皇帝となった安祿山から見れば、謀叛は、我慢がならなかったのであろう。
叛く者は、いずれ、また叛く。
次に、叛かれるのは、自分だ。
そんな奴は、いらない。
哥舒翰は、手紙で将たちに安祿山の下に来るように誘った。
だが、皆、返事で哥舒翰を責めた。
安祿山は、良い結果が得られなかったと、知った。
そこで、哥舒翰を洛陽の苑に閉じ込めた。
体の自由が利かないのだ。
塀を越えて、逃げたりはしないだろう。
哥舒翰は、安堵した。
手紙の往復の時間が、大所帯の唐が、長安から逃げ出す時間を稼ぐことになったであろう。
各戦地に潼関陥落を伝え、対策をたてる時間を確保することにもなったであろう。
落ち着いた行動が出来たはずだ。
捕らわれた自分を、どう活用しようかと、考えた挙げ句の行動であった。
潼関を失った、哥舒翰なりの責任の取り方であった。
なんやかや言っても、玄宗様は、翰に楽団を下さった。
蕃族の翰に文化を下さったのだ。
安祿山を可愛がるといっても、金に換算できるものばかりだ。
皇帝の楽団に、値など付けられない。
誇れるものを頂いた。
玄宗様は、翰を好いてくださったと、今は思える。
祿山は、一人でも投降するならと、兵を動かさずに手紙の返事を待ったのであろう。
その欲が、後で悔やむことになる事を望む。
それに、返事を待ったと云いことは、揚貴妃を手に入れようとしなかったと云うことだ。
揚貴妃を確保するために、別動隊を出すこともなかった。
安祿山に取って、揚貴妃の値打ちは大したことないってことか、
陛下も、二人の噂を気にしなくて正解だったってことだ。
超デブ男と豊満女は、並べて置いても似合わない。
この時期。
暑苦しいだけだ。
安祿山は、しばらくして、
手紙の返事に惑わされて、素早く動かなかったことを後悔した。
哥舒翰を殺そうと、会いに行った。
死に際の顔を見てやろう。
顔を会わせた途端、哥舒翰は言った。
“風林火山”を知っているか?
馬鹿にするな。
当たり前だ。
知っている。
続きがあるのは?
あるのか?
言ってみろ。
その早きこと、風の如く
その徐かなること、林の如く
侵略すること、火の如く、
動かざること、山の如く
までは、知っているのだな。
知り難きこと、陰の如く、
動くこと雷震の如く
と、続くのだ。
知らなかったのだろう。
雷震の如く、動かなかったからな。
さあ、殺せ。
火抜帰仁に足を縛られた時から、覚悟はしている。
戦とは言え、多くの人を殺してきた。
そなたと一緒で、手は血だらけだ。
体は不自由でも、穏やかな死は天が許さない。
あっ、そなた、皇帝なのに、未だに“我”と言っているのか。
“朕”と、言うのだぞ。
“朕”とな。
安祿山は、
殺しとけ!
と、言って去った。
死に顔を見たいとは、もう、思わなかった。
潼関は、すでに破られた。
噂は速い。
哥舒翰の手紙の話と相乗して、千里を走ったのだ。
河東、華陰、ふう翊、上洛の防禦使は皆、担当の郡を棄てて逃げた。
守っていた兵士たちも、皆、どこかに散って行った。
この日(六月九日)
哥舒翰の側近の者が、戦の報告のために、急に参内した。
玄宗は、人に会う時間ではなかったが、召して会った。
だだし、報告する者も、言いにくかったのか、“敗けた”とは、言わなかったようだ。
“憂慮すべき状況”とでも、伝えたのであろうか?
その後、玄宗は、牧場の少年兵三千人と、その監督官・李福徳を潼関に遣わした。
報告を聞いて、玄宗なりに、対応はしたわけだ。
日が暮れた。
毎日、夜になると、潼関から、烽火が伝えられる。
“今日も、何事もなく無事です”との、報告である。
だから、“平安火”と呼ばれていた。
その平安火が、いつまでたっても届かなかった。
玄宗は、不安になり、怖くなってきた。
次の日、六月十日、
宰相・楊国忠と韋見素を呼んで、共に対策を考えた。
楊国忠は、自らが剣南節度使であったから、安祿山の謀叛を聞いた時から、副使の崔円に命じて、秘かに生活に必要な品、もろもろを備え、蓄えていた。
ここに至り、蜀への行幸の策が楊国忠によって、口にされた。
玄宗は、“しかり”と、した。
六月十一日、
楊国忠は、朝堂に文武百官を集めて、今の状況を憂え、涙を流しながら、皆に策を聞いた。
対策は提案されず、皆、頷きただ黙っていた。
楊国忠は、言った。
人が陛下に、「安祿山は、叛きます。」と、言ってから十年がたちます。
でも、陛下は、信じませんでした。
だから、今日のようなことになったのです。
我、宰相の責任ではありません。
潼関の件も、陛下を煽って判断を誤らさせた。
だのに、すべて陛下が悪いように言う。
楊国忠は気付いてないが、皆、楊国忠が何をしたか分かっていた。
ますます、憎まれた。
宮殿の護衛兵は、その日、休みであった。
長安の民も兵士も、驚き乱れ、走りまわっていたが、どこに行っていいか分からなかった。
街中は、もの静かであった。
楊国忠は、韓国夫人、かく国夫人を入宮させた。
蜀への行幸を玄宗に、念押しさせるためであった。
妹である楊貴妃も、当然、同席することになる。
だが、何も、難しく考えることはなかった。
蜀に行くと、聞いた楊貴妃が、破顔一笑、喜んだのである。
宮殿から出られるとは、思ってもいませんでした。
故郷に帰れるのですね。
陛下、蜀のことはあまりよくは知りませんが、ご案内します。
いい所です。
嬉しい。
喜ぶ楊貴妃を見て、玄宗は、脂下がった。
こうして、“蜀行き”は、決定された。