潼関陥落
この時、天下の人は、楊国忠が、驕り高ぶり勝手気ままに振る舞った事が、乱を招いたと、憤っていた。
また、安祿山の挙兵も、“楊国忠を誅す”との名目であった。
王思礼は、
楊国忠を誅するよう、玄宗に上奏するように。
と、密かに、哥舒翰を説得した。
哥舒翰は、応じなかった。
哥舒翰には、わかっていたのだ。
王忠嗣の進言を聞かず、ただ、ひたすら安祿山を信じた玄宗。
もし、哥舒翰が上奏したところで、楊国忠に操られている楊貴妃の一言で、玄宗が楊国忠の意のままになる事が。
王思礼は、また、
三十騎の兵で、楊国忠を連れ去り、潼関で殺すように。
と、哥舒翰に、請願した。
哥舒翰は、言った。
そんな事をしたら、安祿山の謀叛でなくて、哥舒翰の謀叛になるわ。
二人は、心を許した間柄であったから、安思順の時のように、筆談をせず、無防備に話した。
哥舒翰に、楊国忠を害する気がないから、なおさらであった。
ある者が言った。
今の朝廷では、ほとんどの兵士は、哥舒翰の手に在ります。
哥舒翰が、もし、立てた旗を西に向けたなら、楊公は、危険でないことがないでしょう。
楊国忠は、大いに怖れた。
だから、玄宗に上奏した。
潼関の大軍は、勢いがあると言えども、万一、上手くいかない事があれば、後が続きません。
長安は、困ったことになります。
牧場の少年、三千人を選んで、禁苑で訓練をしたいのですが。
玄宗は、これを許した。
楊国忠は、剣南節度使の軍将・李福徳を使って、管理させた。
また、一万の人を募って、は上に駐屯させた。
杜乾運を将とした。
名目は、賊軍を防ぐためとしたが、実は、哥舒翰に対する備えであった。
哥舒翰は、これを聞き楊国忠の意を悟り、楊国忠の企てを怖れた。
そこで、は上の軍は、潼関に従うように上奏した。
結局、は上の兵は、哥舒翰の元に置かれた。
六月一日、
杜乾運を潼関に呼んで、事にかこつけ、斬った。
楊国忠は、益々、怖れた。
ある人が、
賊軍の崔乾祐が陝郡にいて、兵が四千人足らず、皆やる気がなくて、無防備です。
と、告げた。
聞いた玄宗は大喜びで、哥舒翰に使いを出し、兵を進めて、陝郡と洛陽を再び取り戻すように促した。
哥舒翰は、
安祿山は、長い間、兵を使っています。
今、逆のやり方を始めたのでしょう。
無防備なことは、ありません。
これは、必ず、騙して、我々を誘い出そうとしているのでしょう。
“兵は詭道なり”と、言います。
兵法とは、騙すことなのです。
騙されないようにしましょう。
もし、行けば、まさにその計略に陥るでしょう。
賊軍が遠くから来たのであれば、速い戦いが賊軍には、有利でしょう。
我々、官軍は、潼関の険を恃んで抑えられます。
堅く守ることに利があります。
賊軍は、残虐な行いをしたため、民衆の信頼を失っています。
兵の勢いは日増しに衰え、将の間では争いがあります。
戦わずして、勝つことが出来るでしょう。
功は、成せます。
何を急ぐことが必要でしょうか!
いろいろなやり方はありますが、今は、まだ、兵を多く集めず、ただ待つことをお願いします。
と、玄宗に上奏した。
郭子儀と李光弼も、また、玄宗に言った。
兵を率いて、北の范陽を取ることを請います。
その巣窟を覆い、賊の一味徒党、妻子を招いて、是非を明らかにします。
賊軍は、必ず、内から、壊れるでしょう。
潼関の大軍は、ただ、守りを堅くしていれば、いいのです。
軽々しく、出るべきではありません。
出ると、必ず敗けます。
楊国忠は、三人が揃って“守るべき”と言うのは、哥舒翰の謀り事ではないかと、疑った。
玄宗に、
賊は無防備なのに、哥舒翰は、留まっています。
まさに、好機を失ってしまいます。
と、言った。
玄宗は、“そうだな”と、した。
宦官をたびたび遣わして、出兵するように、促した。
これ以上、断れば、忠誠心を疑われるのではと、哥舒翰は思った。
哥舒翰は、胸を叩いて哭いた。
哥舒翰には、展開が見えたのである。
良い方向に向いているとは、思えなかった。
六月四日、
哥舒翰は、馬車に乗り、兵を率いて潼関を出た。
六月七日、
哥舒翰の軍は、霊宝県の西原で崔乾祐の軍を見た。
崔乾祐の軍は、南にある薄山と、北に河で阻まれた、狭い道が七十里(周代の一里は405メートル、計算すると28、35キロメートル)続く場所、山が険しくて、守りの固い地に陣取っていた。
哥舒翰の軍は、戦うために、河を渡らなければならなかった。
河の浅い所は、騎馬兵は進めたが、歩兵のために、舟で橋を作らなければならなかった。
黄河を渡るために、舟で橋を作るのは、慣れている。
またはるかに巾が狭い河なので、舟同士、すき間を作らず縄で繋ぎ、上に板を置いて、歩けるようにするのであるが、手際良く作れた。
哥舒翰は、思った。
我々を誘き出すためではあるが、見え無いところで、万全を期しているはずだ。
また、この狭い地を生かす策を講じているであろう。
六月八日、
哥舒翰の予想通り、崔乾祐は、山の険しい所に、伏兵を置いた。
哥舒翰は、土地の様子と官軍の全容を見たくて、浮き橋の真ん中辺りまで、田良丘と一緒に行った。
見た所、崔乾祐の軍の兵は少なく、諸軍は、テキパキと動いていた。
王思礼は、騎馬の精兵五万を自分の前に置いた。
ほう忠たち将の兵十万が、それに続いた。
哥舒翰の兵三万が、河の北の丘に登り、何時でも行けるように、待機していた。
太鼓が鳴り、“進め”と、その勢いを鼓舞した。
崔乾祐は一万人足らずの兵を出した。
その兵たちは、半分半分、それぞれ星の如く、散ったり、並んだりした。
同時に、同じ行動をしなかった。
疎らになったり、くっ付きあったり、前に行ったり、退いたりした。
官軍の兵たちは、その様子を見て笑った。
まるで踊っているようで、軍隊として、考えられない動きであったからだ。
崔乾祐の精兵は厳めしく、その後、整列し、官軍に向かって来た。
賊兵、官兵、お互い入り乱れた。
賊軍は、逃げる者のように、旗が倒れても気にしなかった。
旗を大切にしない賊軍を見て、官軍は、気が弛んだ。
御しやすい相手と軽く見て、心構えをしなかった。
しばらくして、伏兵が現れた。
賊兵は、山の上から、木や石に乗り落ちて来た。
下の多くの官軍の兵たちが、木や石に当たって死んだ。
死人が道に溢れた。
兵士たちは、狭い道、人との間隔が取れないので、束のようにくっつきあった。
腕を動かせないので、槍や薙刀が使えなかった。
そんな様子を見ていた哥舒翰は、我慢できず、馬車の馬に、馬車の敷物を敷き、先頭を駆けた。
賊兵を槍で衝きたいと、思ったからだ。
昼を過ぎた頃、急に激しい風が吹き出した。
崔乾祐は、草を乗せた荷車、数十台を官軍の馬車の前に置いて、道を塞いだ。
そして、燃える火を放った。
周りは、煙と炎に包まれた。
官軍の兵士は、目が開けられなかった。
焦った心で、むやみに、殺しあった。
賊兵は、煙の中にいるぞ。
と、誰かが言った。
弓や弩弓で群がって、射た。
日が暮れた。
矢が尽きた。
周りを見ると、賊兵はいないと知った。
味方を射たのであった。
崔乾祐は、同羅の精鋭の騎兵を、南山を過ぎた所に遣わした。
そして、官軍が狭い道を出る後ろを、攻撃させた。
官軍は、最初から終りまで、驚かされ乱された。
心を平静に保てなかった。
大敗を喫した。
ある者は、鎧を棄て、山谷に逃げて隠れた。
ある者は、互いに押し退け、河に落ちて溺れて死んだ。
恐怖の叫び声が、天地を震わせた。
賊軍は、勝ちに乗って追いかけて来た。
後ろの軍は、前の軍の敗けるのを見た。
皆、雰囲気に呑まれて、自ら崩れていった。
河北から遣って来た賊軍は、官軍が崩れていくのを見ていた。
敗北を悟った哥舒翰は、独り、走った。
直属の兵、数百騎が続いた。
首陽山から、西の河を渡り、関所に入った。
関所の外には、三つの壕が掘られていた。
どれも、巾二丈(周代の丈、2、25メートル)四、五メートル、深さ一丈、二、二五メートルの大きさであった。
駆けてきた人馬が、その中に落ちた。
しばらくすると、その豪は、いっぱいになった。
後からやって来た兵士たちが通る度に、馬が足で踏みつけた。
兵士たちで、関所に入れた者は、わずか八千人少しであった。
六月九日、
崔乾祐は、潼関に攻め進んだ。
留守を守る兵士だけでは、潼関は、守り切れなかった。
賊軍が潼関を手に入れた。
潼関は、陥落したのだ。