来てん・抜擢
李光弼は、常山城にいて、史思明と四十日以上、対峙していた。
史思明は、常山城を囲み、糧道を封鎖して、外部から、物が届かないようにしていた。
兵糧責めを考えていたようであった。
馬のまぐさ用の、城中の草が少なくなった。
李光弼は、馬車五百乗で、石邑へ草取りに出かけた。
車に乗る者は皆、鎧をつけ、弩弓の射手千人に守らせ、車列を連ねて行った。
賊兵は、何も出来なかった。
蔡希徳は、兵を率いて、石邑(土門)を攻めた。
張奉璋は、退かなかった。
李光弼は、直ぐに、郭子儀に使いを送り、知らせた。
郭子儀は、兵を率いて土門を出た。
夏、四月九日、
常山に着いて、李光弼と合流した。
蕃人、漢人、歩兵、騎兵、十万人以上であった。
四月十一日、
郭子儀と李光弼は、史思明らと、九門城の南で、戦った。
史思明は、大敗を喫した。
中郎将の渾かんが、賊将・李立節を射殺した。
史思明は、兵を連れ、趙郡に逃げた。
蔡希徳は、鉅鹿に逃げた。
史思明は、趙郡から博陵に進んだ。
そして、博陵の郡官を皆殺しにした。
河北地方の民は、賊の残酷で横暴なやり方に苦しんでいた。
だから、身を守るために、至るところで、群れ集まっていた。
多くて二万人、少なくとも一万人、各々の陣営で、賊に対抗していた。
郭子儀、李光弼の軍隊がやって来ると、出てきて、争って手柄をたてようとした。
四月十七日、
趙郡を攻めたら、城は一日で降伏した。
多くの兵士が、虜にした人たちから、財物を奪い取っていた。
李光弼が、城の門の所に座り、取られた物をことごとく、返していった。
民は、大喜びであった。
郭子儀は、捕まえた人、四千人を牢に入れずに、皆、放っておいた。
(無理強いされた人もいたと、考えたのだ。)
しかし、安祿山の太守・郭献きゅうは、斬った。
李光弼は、進んで、博陵を取り囲んだ。
十日たったが、落とせなかった。
そこで、李光弼は、皆で美味しい物を食べ、ゆっくりして、英気を養おうと、兵を率いて恒陽(常山)に帰って行った。
楊国忠は、長とする武将は、誰がいいか、左拾遺である博平の張鎬と蕭きんに問うた。
張鎬と蕭きんは、左さん善大夫、永寿の来てんを勧めた。
四月二十三日、
来てんは潁川太守となった。
潁川城は、(洛陽の南東にある、嵩山の南から発し、北から淮水に流れ込む)潁川の側に位置する。
潁川は、通済渠の西にあり、平行して、同じように、淮水に流れ込む川である。
潁川城は、淮水に近い場所にあると言える。
通済渠の傍らの城を攻めている賊軍にしてみれば、離れていても、後ろから、見られている気分になる場所である。
兵糧責めをしている所の賊軍には、仕事がない兵がいる。
だから、潁川城は、兵に余裕のある賊軍に、次々と攻め込まれた。
やって来る方向は、通済渠の北の方からや南からで一定ではない。
けれども、来てんは、それらのあらゆる賊兵を、撃ち破った。
本郡防禦使の役も加えられた。
その、あまりの強さに“体が、鉄で出来ているのではないか?”と、
(嚼ーしゃく・物を口の中に入れて、噛みこなす。)
“来てん”の名を、“来嚼鉄”と、人は呼んだ。
安祿山が管轄する平盧節度使の呂知誨は、安東副大都護の馬霊さつを誘って、殺した。
平盧遊えき使・武しょうの劉客奴は、先鋒使・董秦と、安東都護府の将・王玄志らと謀り、呂知誨を殺した。
そして、平盧節度使は、長城の外、営州にあるため遠く、陸路は安祿山に見つかる危険があるので、船で海を渡り、顔真卿の元に書状を遣わした。
書状には、范陽節度使を取り戻し、朝廷に奉りたいと、述べられていた。
顔真卿は、判官の賈載に、食糧と兵士の衣を助けとして持たせ、遣わした。
顔真卿は、その時、わずか十才程のたった一人の息子・頗を人質として、劉客奴に送った。
劉客奴は人質とせず、すぐに、頗を送り返したと、言う。
顔真卿の行為に、信頼が持てたのだろう。
朝廷は、その話を聞き、劉客奴を平盧節度使とし、名前を、“正臣”と賜った。
劉客奴の名前の“奴”は、賤しいと言う意味を持つ。
行いに相応しい、立派な名前を賜ったのである。
王玄志には、安東副大都護、董秦には、平盧兵場使の官職を賜った。
安祿山の本拠地、范陽(幽州、今の北京)を南から攻めるだけでなく、背後の北からも攻めるとなると、“勝ち”が近づく。
平盧節度使があるといえども、やはり、蛮族の地である。
まさか、長城の外に、朝廷の支持者がいるとは思わない。
安祿山も、蛮族である。
想定外であったであろう。