安思順の死
哥舒翰は、安思順をどういう形で、処分しようかと、考えていた。
王思礼は、同じ潼関にいるので、よく顔を出した。
いろいろと情報を伝えてくれるので、部屋にいても、関所のことはよくわかっていた。
王思礼は、哥舒翰が、わざわざ玄宗に上奏して、潼関に遣わしてもらった人物である。
玄宗は、
哥舒翰担当の隴右節度使、河西節度使から、多くの精鋭が来ているのに、何故、王思礼が必要なのか?
と、聞いた。
頼りになるのは、王思礼のみ。
と、哥舒翰は答えた。
哥舒翰と王思礼は、王忠嗣の下で一緒に旗を持った仲である。
長い付き合いで、部下といえども、友人であった。
安思順のことを、これ以上放っておくわけには、いかない。
信頼できる王思礼が、必要だったわけである。
王思礼は、楊国忠のことを嫌っていた。
王思礼は、お金にきちんとしていた。
お金だけでなく、すべてにいい加減な楊国忠に、我慢がならないのであった。
哥舒翰は今のところ、楊国忠に被害は受けていない。
それより、安思順を放っておいたら、戦で、唐が、何等かの被害を被るであろう。
李光弼は、忙しいだろうから、とても相談できない。
裴冕に、会わなければ。
王思礼に、安思順の節度使としての、失政を調べるように言った。
王思礼は、自分がちゃんとしているものだから、必ず、お金の不都合を見つけ出すだろう。
どうせなら、悪い事をいっぱい並べてやろう。
玄宗を焚き付けるには、数で勝負するのも、いいかも知れない。
一つなら、説得力はないけれども、品を変え、いろいろ並べたら、すべてに、言い逃れるわけにはいかないだろう。
それよりなにより、安祿山からの手紙が、決定打になるであろう。
これは、裴冕に頼もう。
いや、待てよ。
巧みな文章は、安祿山らしくない。
反って、嘘っぽい。
人に書かせるから、字は上手く、文章は難しい言葉は使わず、適当に。
結構、大変だ。
本人の物を見てみたいものだ。
初め、戸部尚書の安思順は、安祿山の謀叛を知り、朝廷に入り上奏した。
それから、安祿山の挙兵が伝えられた。
玄宗は、安祿山の謀叛の話より、上奏が先だったからと、安祿山の身内であったにもかかわらず、謀叛の連座の罪に問わなかった。
哥舒翰は、元々、安思順とは、上手くいっていなかった。
人を使って、
安祿山が安思順に遣わした書状を、潼関で手に入れました。
と、玄宗に献上した。
その上で、安思順の七つの罪を数えあげ、誅するように、請うた。
一つ、皇帝陛下を騙したこと。
一つ、宰相殿を騙したこと。
一つ、李光弼を節度使代理にして、都に住もうとしたこと。
一つ、節度使として、責任感がないこと。
一つ、李林甫に賄賂を送って、朔方節度使の後がまになったこと。
一つ、安思順の節度使の会計が無茶苦茶なこと。
一つ、
全部聞かないうちに、玄宗は、殺すように命じた。
三月三日、
安思順と弟、大僕卿の安元貞が死んだ。
家族は、嶺外に流された。
楊国忠は、自分の間者だと思っていたので、助けようとしたが出来なかった。
“騙された”と、思った玄宗が許さなかったのである。
これ以降、楊国忠は、哥舒翰を怖れるようになった。
哥舒翰は、文句を言う楊国忠を相手にしなかったのである。
“哥舒翰は、宰相の楊国忠を怖れていない。”のを、楊国忠は知ったのである。
郭子儀は、朔方節度使に帰って、より精鋭を選んだ。
朔方節度使は、“絹の道”入り口近くにある。
安祿山の領する地からは、遠い。
安祿山と戦うためには、こんな所に居られない。
三月五日、
郭子儀は、代州に向かって進軍した。
代州に何かがあるわけではない。
安祿山と戦っている李光弼たちに、応援を求められたら、すぐに行ける場所であった。
そして、そこは、大同軍が不測の動きをしたなら、すぐに対応できる場所でもあった。
土門と大同軍の中間の場所に駐屯することにしたのである。