新しい載
天宝十五載(756年)
一月一日、正月、安祿山は洛陽で、自ら、大燕皇帝と名乗り、元号を、聖武とした。
達奚しゅんを侍中とし、張通儒を中書令とした。
中書令は唐王朝で、今、楊国忠が任じられている官職で、ズバリ、宰相である。
李林甫も、中書令であった。
侍中も、宰相であるが、中書令が、序列として、上である。
張通儒は、顔杲卿の部下である、張通幽の兄である。
捕らわれていると、言っていた人物である。
臣下の中で、最上位の位を貰っている。
安祿山に対する貢献度が、高いのであろう。
節度使時代の側近である、高尚、厳荘は、中書侍郎となっていた。
李随が、数万の兵を連れ、き陽に到着した。
一月二日、李随を河南節度使とした。
前の高要の尉である許遠を、き陽太守、防禦使とした。
許遠は、蜀で勤務していた時、章仇兼瓊に逆らって、高要の尉に貶められていたのだ。
濮陽を訪れていた、尚衛が安祿山を討つために、挙兵した。
郡人・王栖曜を衛前総管にし、済陰を攻撃し、手に入れ、安祿山の武将・刑超然を殺した。
顔杲卿は、長男・顔泉明、賈深、てき万徳、張通幽に、李欽湊の首と、高ぼう、何千年を長安に届けるように、託していた。
太原府に着いて、張通幽は、自らの欲を王承業に託して、顔泉明たちを留めた。
そして、張通幽は王承業に、顔杲卿の書状を、王承業の功績を多くし、顔杲卿の功績を小さく書き変えて、別の使いに献上させるように教えた。
まるで、事情を知らない人が届けたなら、もし、玄宗に、その時の様子を問われても、知らないので、答えられない。
書状との辻つま合わせの心配をしなくて済むと、考えてのことである。
そして、顔泉明たちを帰そうとした。
帰り道で殺すように、部下に命じた。
だが、部下は断った。
誰だって、何の罪もない者を殺したくはない。
仕方なく、太原に留め置いた。
顔杲卿が挙兵して、わずか八日。
まだ、防御態勢は整っていなかった。
安祿山の命を受けた、史思明と蔡希徳は、それぞれ、一万の兵を連れ、常山の城を囲んだ。
顔杲卿は、王承業に急いで、助けを求めた。
だが、王承業は、すでに、顔杲卿の功績を盗んでいるので、常山城が陥落するほうが利益になると、遂に、助けの兵を出さなかった。
顔杲卿は、昼も夜も応戦した。
食糧も矢も尽き、一月八日、城は、落ちた。
賊兵は、万人をほしいままに殺した。
顔杲卿と袁履謙は、捕らえられ、洛陽に送られた。
王承業の使いが長安に着いた。
“土門を開いた、”との報告に、玄宗は、大喜びした。
王承業に羽林大将軍を授け、配下の者、百人以上に、官職を授けた。
顔杲卿には、わずかに衛尉卿とした。
だが、朝廷の任命書を、顔杲卿は見ることはなかった。
常山は、すでに、落城していたのである。
顔杲卿は、洛陽に着いた。
安祿山は、責めて言った。
汝は、范陽で戸曹をしていたから、判官にしてやった。
数年もしない内に、太守にまで、してやった。
だのに、何で、我に、背いたのだ?
顔杲卿は、目を剥いて、答えた。
汝はもともと、営州の羊飼いの蛮人だ。
陛下が汝を三つの節度使に抜擢したのだ。
陛下の恩は、比類ない。
何で、そなたは背いたのだ。
我は、代々、唐の臣だ。
官位は、すべて唐に頂いた。
たとえ、汝が上湊して、賜ったとしても、汝に従うことはない。
我は、国のために、賊を討つ。
汝に斬られても、恨まない。
だのに、どうして背いたというのか?
血生臭い蛮族の犬め、何故、我を早く殺さないのか!
安祿山は、大いに怒った。
顔杲卿を、袁履謙と共に、天津橋の中の柱に縛った。
そして、刑罰の一種である、骨の関節をすべて外していった。
ここで、気絶した。
息も出来ないほどであった。
それから、舌を切った。
もう、罵れないだろう?
顔杲卿は、息絶えた。
六十五才であったという。
この日、顔杲卿の幼な子・誕、姪・く、袁履謙、皆、先に手足を斬られていた。
何千年の弟が、傍にいた。
その顔に、袁履謙が血を噴いたので、また、罰を受けた。
道にいた人は、皆、涙を流した。
顔杲卿の一門、この日、刑罰を受け死んだ者、三十人以上いたという。
顔杲卿の死に様は、何を伝たのであろうか?
奇異に感じるのは、安祿山が、顔杲卿に“恩を感じていないのか?”と、問うたことである。
そっくり、そのまま、玄宗が安祿山に言っても、おかしくない言葉である。
安祿山には、そのことが、分かっていたのだろうか?
自分は、裏切りながら、他人には、“裏切った”と、責める、その可笑しさ。
自分が口にしたことの、矛盾に。
無惨ともいえる、顔杲卿の“死”。
だが、その”無惨な死“は、後に続く、顔真卿への伝言ではなかったか?
最期まで、頑なに立ち向かった顔杲卿。
我も、耐えた。
そなたたちも、耐えろ。
逆境にこそ、真価を見せろ!
いずれ、評価される時が来る。
顔氏は、正当な者に、価値を認められてこそ、輝くのだ。
“論語”の中の人物が、今も、我々の中で生きている。
御先祖様に、恥じないように、そして、自分に恥じないように生きよう。
迷った時は、自分に聞け。
我々は、正しい選択をするように、育てられている。
史思明、李立節、蔡希徳は、すでに、常山を征服していた。
そして、兵を率いて、従わない諸郡を攻撃していった。
通りすぎた所は、無惨な有り様であった。
ぎょう、広平、鉅鹿、趙、上谷、博陵、文安、魏、信都などの郡は、また、賊軍の支配下に置かれた。
だが、ぎょう陽太守の盧全誠は、一人、従わなかった。
史思明らが、ぎょう陽を取り囲んだ。
河間の司法である李奐が将となり、七千の兵と、景城の長史・李いの子・李祀が将となり、八千の兵、合わせて、一万五千の兵で、ぎょう陽を救った。
皆、
史思明が敗北とした。
と、言った。
玄宗は、郭子儀に、雲中(雲中城・大同県にある城・ここに大同軍が置かれていたのであろう。)を取り囲むのを止めて、(取り囲むのは、城外との連絡を絶たせ、食糧を運び込ませないためである。いわゆる、兵糧攻めを念頭に置いた、戦いをしているのである。こちらの兵力は温存出来るが、ただし、時間がかかる。)朔方節度使に還り、兵を進めて、洛陽を取り戻すように命じた。
玄宗は、なかなか成果が見えない作戦に、痺れを切らしたのだ。
郭子儀は、大同軍を落として、安祿山の本拠地・范陽を襲うつもりだったのであろう。
安祿山の読み通りである。
玄宗は、
土門から兵を出し、河北地方を平定するよう、任せられる将軍を一人、推薦するように
と、言った。
郭子儀は、李光弼を薦めた。
一月九日、
李光弼を河東節度使とし、朔方節度使から、一万人の兵士を分けさせた。
一月十日、
哥舒翰に、左僕射と同平章事の官職が加えられた。
南陽節度使が置かれた。
そこで、魯けいを南陽太守にした。
嶺南、黔中、襄陽地方の師弟、五万人を葉の北に駐屯させて、安祿山の備えとした。
一月十一日、安祿山が、息子・安慶緒を潼関に侵入させようとした。
哥舒翰が、すぐに撃退した。
一月一五日、
顔真卿に、戸部侍郎と本郡防御禦使の官職が加えられた。
顔真卿は、李いを副とした。