顔杲卿の策
顔杲卿は、挙兵しようとしていた。
参軍のふう虔、前真定県令・賈深、藁城尉・崔安石、郡人・てき万徳、内丘県丞・張通幽、皆、謀に前から関わっていた。
また、太原府の尹・王承業に人を遣わして、お互いに助け合うよう秘かに約束していた。
従兄弟の顔真卿が、平原の顔杲卿に杲卿の甥・盧逖を使いに寄越して、
安祿山の范陽への退路を絶つ。
山西に入る通路(土門)を通り易くする(開く)。
と、二つのことで協力しようと、謀を伝えて来た。
顔杲卿は、大喜びした。
土門は、常山郡にあるので、食糧などを供給をすることになっている。
安祿山に指示されてから、一と月程経った。
その分、交流がある。
丁度その時、安祿山は、金吾将軍・高ぼうを范陽に、徴兵のため遣わしていたが、まだ帰っていなかった。
顔杲卿は、安祿山の命令で、土門を守る大将である李欽湊と周りの者を、宴会や賜り物でいたわりたいと、役所に呼んだ。
十二月二十一日、
夕方、李欽湊が着いた。
顔杲卿は、袁履謙とふう虔に、酒や食べ物を持たせ、妓女たちを連れて、ねぎらうために行かせた。
やって来た連中が大いに酔ったので、李欽湊の首を斬った。
他の将たちは、捕らえた。
夜、袁履謙が、李欽湊の首を顔杲卿に見せにきた。
二人は、涙を流して喜びあった。
次の日、捕らえた者たちを斬った。
土門では、大将たちがいなくなったので、兵たちは散り散りになった。
その頃、藁城の尉・崔安石から、
高ぼうが、幽州から藁城に帰って来た。
と、報告があった。
顔杲卿は、ふう虔を使って捕らえさせた。
顔真卿に、何千年が洛陽から来たと、報告が入った。
崔安石とてき万徳が、醴泉駅に何千年を迎えに行った。
何千年も、また捕らえられた。
同じ日、平原郡で、賊将二人が拉致された。
捕らえた、何千年が、顔杲卿に言った。
今、太守は、王室に対して、力を尽くしたいと、思っている。
すでに、始めているのは、いい事だ。
ただ、終わりをおろそかにしないように。
この郡の兵は応募による烏合の衆で、敵に対した時が難しい。
溝を深くして、砦を高くしたらいい。
先鋒を争うことは無い。
頼りになる朔方節度使の軍隊がきたら、力を合わせて、同じようにすればいい。
趙と魏の国に回文を送り、燕と薊の国には、要である背骨を断て。
李光弼が、歩兵、騎兵、一万を率いて、土門から出て来るだろう。
聞いて、顔杲卿は、喜んだ。
そして、その策を用いた。
顔杲卿は、安平の尉である長男、顔泉明と、賈深、てき万徳に、箱に入れた李欽湊の首と、手かせを付けた何千年、高ぼうを、長安に送らせようとした。
その時、張通幽が、泣いて頼んだ。
通幽の兄が、安祿山の手に落ちています。
お願いします。
どうか、皆と共に、行かせてください。
家族を救うためです。
顔杲卿は、あわれんで、同行を許した。
顔泉明と賈深、てき万、張通幽の四人が、首を持ち、二人の賊将を連れて、開かれた土門を通って、まずは、太原府に向かった。
土門が開いた。
顔杲卿は、崔安石らに命じて、諸郡に広く知らせた。
大軍は、土門を通り、まず、河北諸郡を平定して、近い内に必ず来る。
賞する者が先で、罰せられる者は後になる。
これで、河北諸郡は、人の言動に応じて、直ぐに行動をするようになった。
おおよそ、十七郡が皆、朝廷に帰順した。
兵は、合わせて二十万人以上いた。
安祿山に付いた郡は、范陽、盧龍、密雲、漁陽、きゅう、ぎょう、の六郡だけになった。
顔杲卿は、また、秘かに范陽に人を遣わして、賈循と会うようにした。
賈循、賈循は、洛陽に向かう安祿山が、直前、范陽節度副使とした人物である。
その時、一緒に、平盧節度副使には、呂知誨が任命された。
この二人、河東節度使になった楊光かいと同じ、
楊国忠の、安祿山に替わる節度使として、書類に記されていた人たちなのである。
安祿山が失脚したら、楊国忠によって、次の節度使になる予定の人なのであった。
楊国忠の意を受けていると考えられる。
こう城の人、馬燧は賈循に言った。
安祿山は、恩を受けながら、道理に逆らっています。
洛陽を得たといえども、最後は蛮地に帰って滅びるでしょう。
そなた、諸将の命令に従わない者は殺しなさい。
そして、范陽を国に返しなさい。
その根っこは、元から傾いているのです。
これは、世の中でいう、成功ではありません。
賈循は、その通りとした。
別将・牛潤容はこの事を知り、安祿山に告げた。
安祿山は部下の韓朝陽に、賈循に会うように言った。
韓朝陽は、范陽に着いた。
賈循を引っ張ってきて、ひそひそ話をした。
そして、若者を使って、絞め殺させた。
危険分子を始末したのであった。
賈循の一族は滅んだ。
史思明、李立節は蛮族の将であった。
漢人の歩兵、騎兵、合わせて、一万人で、博陵、常山を攻撃させた。
最初、安祿山は、自ら、潼関を攻めようとして、新安にまで来ていた。
だが、土門で問題が起きたと聞いて、洛陽まで帰ったのである。
蔡希徳は、合わせて一万人で、自ら、河北の常山を攻撃した。
十二月二十三日、
栄王・えんが亡くなった。
靖恭太子と諡された。