潼関の長・哥舒翰
河西節度使、隴右節度使の哥舒翰は、病で体をこわし、家に居た。
玄宗は、かつてのその評判を書類で見た。
それと、もともと安祿山と仲が悪いので、呼んで会って見た。
そして、将兵八万でもって、安祿山を討つよう、天下四方に兵を進め、洛陽を攻略するように、兵馬副元帥の地位を与えた。
栄王・えんが元帥とされた。
哥舒翰は、病を理由に、固く辞退した。
他人の介助なしには、動けないのだ。
けれども、玄宗は許さなかった。
田良丘を御史中丞とし、行軍司馬とした。
起居郎・蕭きんを判官とし、蕃将・火抜帰仁ら、各々の部落の将を従え、高仙芝の旧兵士も合わせて、二十万人と称して、潼関に軍を駐留するように命じた。
哥舒翰の病は、治ることがない病である。
だのに、こんな体の不自由な自分に、大きな責任を負わせるのは、負わせられる方としては、やはりいい気はしなかった。
しかし、皇帝の命令だ。
従わない訳には、いかなかった。
だから、軍の運営は、すべて田良丘に委せた。
田良丘も、またあえて、何事も決定しなかった。
そして、王思礼を騎馬の担当にし、李承光を歩兵の担当にした。
二人は、主導権を争った。
騎馬と歩兵に統一感はなかった。
哥舒翰は、規則を厳しくするだけで、思いやりは、感じられなかった。
兵士は、皆、気が弛み、やる気はなかった。
哥舒翰は、自分が気遣われていないのに、他人にまで、とても、心配りは出来なかった。
心に余裕はなかった。。
口には出さなくても、玄宗に腹を立てていたのである。
こんな普通でない自分に、国のために働けと、言う。
責任者として。
高仙芝、封常清に対する仕打ちも、酷いと思われた。
陝を捨て、潼関に入ったから、長安は守られているのである。
長安城は、潼関の守りの堅さに頼んで、攻めにくくは造られていない。
陝から潼関まで、無理をした筈である。
犠牲は、大きかった筈である。
それを評価しない。
租米を焼いたのも、兵法で、敵の食糧を使うのが、上策とされているからだ。
だから、敵に渡さないために、欲しい人には渡し、残りは焼いたのである。
それを、盗んだとするなんて。
戦を知らない宦官を、監督に寄越して、言いなりになり、間違った判断で、罰する。
武官は、報われていない、と思う。
王忠嗣の事が、思い出される。
今に、翰だって、同じように扱われるのだろう。
不自由な体で、心は、晴れなかった。
安祿山は、大同軍の高秀厳に、ぜん于都護府にある振武軍に侵入させた。
朔方節度使の郭子儀は、これを撃ち破った。
郭子儀は、そのまま勝ちに乗り、ぜん于都護府の東北にある、静辺軍を手に入れた。
大同兵馬使・薛忠義は、取られた静辺軍を取り返そうと、侵入した。
郭子儀は、左兵馬使・李光弼、右兵馬使・高濬、左武鋒使・僕固懐恩、右武鋒使・渾釈之らに、逆に襲撃させ、大破した。
勝ち進み、雲中を囲み、公孫瓊厳を将とする、二千騎で馬邑を撃ち、これを手に入れた。
だから、“東けい関”が開かれた。
十二月十九日、
郭子儀に、御史大夫の官職が加えられた。
僕固懐恩は、世に金微都督と言われた、哥濫抜延の曽孫である。
渾釈之は、渾部の酋長で、世に皋蘭都督と言われた。
郭子儀は、蕃族の酋長を上手く使ったとされる。