陝州の租米と絹
封常清は、残りの兵士を引き連れ、陝に着いた。
陝郡太守・竇廷芝は、すでに、河東地方に逃げていた。
役人も民も皆、散り散りであった。
高仙芝は、陝から洛陽の方に進もうとしていた。
封常清は、高仙芝に云った。
封常清は、毎日、血まみれになって戦った。
賊軍の先鋒には、当たらない方がいい。
それと、潼関には兵士がいない。
もし、賊兵が、潼関に突入したら、直ぐに、長安が危機に陥るだろう。
陝は、守ることはない。
兵士を引き連れ、先に潼関に入り、賊軍を阻止したらいい。
と、高仙芝に、軍隊を引き返すように勧めた。
長い付き合いだ。
高仙芝は、封常清の言葉を信じた。
逃げて来た兵士たちも、口々に、安祿山の兵の強さ、恐ろしさを訴えた。
陝の兵士たちには、説明はいらなかった。
だが、陝には、大きな倉庫があり、多量の租米や帛(絹)が収められていた。
そのままだと、賊軍に食糧を提供することになる。
帛は、戦費に使われるだろう。
欲しい人には、租米も帛も渡した。
その後、賊軍を喜ばせないように、倉庫に火を放った。
それから、直ぐ、潼関を守るために、昼も夜も潼関目指して走った。
五万の兵士が、賊軍がすぐ近くに来ているからと、隊列も組まず、狼狽して走った。
訓練を受けていない者たちだ。
長い距離にくたびれてきた。
死者が多く出た。
その屍の上を踏み越えて走った。
朝廷も世間も、大変驚いた。
潼関に着いた。
守備を整えると、賊軍がきた。
しかし、今までのようには入れず、諦めて去っていった。
安祿山は、崔乾祐を陝に駐屯させるように遣わした。
臨汝、弘農、済陰、濮陽、雲中郡、皆、安祿山に降伏した。
朝廷はこの時、各方面が兵を集めようとした。
思うような人数には、ならなかった。
関中は、恐れおののいた。
安祿山の方では、正月に、皇帝を名乗ることを相談していた。
正月は、安祿山の誕生日でもあったので、お目出たさが増すことであった。
だから、洛陽から動かなかった。
ゆえに、朝廷では、備える準備が出来たのである。
また、兵士も少しながら、集まった。
安祿山は、張通儒の弟・張通晤をすい陽太守にした。
陳留の長史・楊朝宗を蛮族千騎以上の将とした。
郡県の役人の多くは、すみやかに投降した。
ただ、東平太守の嗣呉王・祗、済南太守・李随は戦を拒んだ。
郡県の賊に従わない者は、皆、呉王を頼みとした。
ぜん府の尉・賈ふんは、役人や民を統率して、すい陽を攻撃して、太守の張通晤を殺した。
李廷望は、兵を率いて東の地に後を追った。
だが、あえて進まず、帰ってきた。
十二月十五日、
永王・りんを山南節度使に任じた。
江陵長史・源いを副節度使とした。
穎王・げきを剣南節度使に任じた。
蜀郡長史崔円を副節度使とした。
二人の親王は、出閣したことがなかった。
親王たちは、王宅に住んでいる。
出閣した経験があるのは、蓮と永嘉房にいた、忠王くらいであろう。
親王たちが、王府を貰え無くなって、郡主である、丹丹は、自分の家がなくて、困っていた。
だが、国をあげての災難の時、玄宗には云えなかた。
忠王も李俶も、丹丹のために何もできなかった。
だから、礼会院に住んでいる、丹丹の姉に当たる大寧郡主に頼んで、郡主の宮殿の中の幾つかの部屋を借りることにした。
李俶が、将来、それなりの地位に就いた時、優遇すると、云うことで。
忠王も、“丹丹のことを宜しく”と、頼んだ。
どうも玄宗は、丹丹の行き場を無くして、楊一族の元に、帰そうと考えていたようだった。
年をとる事は、悲しいことだ。
今まで、出来ていた事が、出来なくなる。
玄宗は、楊貴妃に、優しく介護されたいと、思っていたのだろう。