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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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土門

天宝十四載(755年)

十一月十五日、玄宗は、安祿山の謀叛が、確かだと知った。

そこで、宰相を召して相談をした。

楊国忠は、(私の言う通りだったであろう、と)意気揚々と得意気であった。

そして、言う事には、

今、反する者は、一人安祿山のみ。

将兵は、皆、そんな事は望んでいません。

十日過ぎずとも、必ず、奴の首が、陛下の元に届くでしょう。

玄宗は聞いて、その通りと頷いた。

大臣たちは、意気消沈し、お互い顔を見あわせた。

玄宗は、畢思ちんを洛陽に遣わし、

金吾将軍・程千里を河東方面に遣わして、各々数万の兵を募り、防御させることにした。

十一月十六日、

安西節度使の封常清が、参内してきた。

玄宗は、賊を討ち取る方法を聞いた。

封常清は、大言を吐いた。

今は、天下は太平で久しくなります。

だから、人は賊を憚り望みません。

しかし、順序が逆になることも、あります。

勢いで、変わることもあります。

臣は、洛陽に早々に行って、国庫を開いて、強く勇ましい兵を募り、馬にムチ打ち、河を渡るような気持ちで挑みます。

逆臣の蛮族の首は、そんなにかからなくても、陛下に献上できるでしょう。

玄宗は、喜んだ。

十一月十七日、

封常清を、安祿山の後がまとして、范陽節度使、平盧節度使に任じた。

封常清は、その日のうちに、洛陽に行き、募兵をして、十日程で、六万人を得た。

黄河にかかる河陽橋を絶って、守備の備えとした。

十一月十九日、

安祿山は、博陵の南に着いた。

范陽(今の北京)から、黄河までの間には、特に難かしい場所はない。

ただ、十五万人の大きな隊なので、ここに来るのに、十日かかっている。

何千年が、捕らえた河東節度使の楊光かい等を、安祿山の前に連れてきた。

楊光かいは、楊国忠に付き従ったことを責められ、見せしめの為に、斬られた。

安祿山は、将軍・安忠志に精鋭の兵士を率いて、“土門”を守るよう、遣わした。

安忠志は、奚人であり、安祿山の養子であった。

又、張献誠は、博陵太守を任された。

張献誠は、あの張守珪の息子である。

范陽節度使であり、安祿山の上司であった張守珪である。

安祿山は、藁城に着いた。


常山太守の顔杲卿は、拒む力を持っていなかった。

部下の長史・袁履謙と出迎えに行った。

安祿山は、顔杲卿に紫色の礼服を、袁履謙に赤の礼服を与えた。

そして、顔杲卿の子を人質とし、引き続き、常山を守るように命じた。

又、将軍李欽湊に、西からやって来る官軍に備えるために、兵士数千人で、“井けい口”を守るよう遣わした。

顔杲卿は、帰る途中、安祿山から貰った衣を指差し、袁履謙に言った。

なんで、こんな物着るのだ?

袁履謙は、顔杲卿の気持ちを察した。

そこで顔杲卿と袁履謙は、安祿山を討つために、秘かに兵を集めようとした。

顔杲卿は、顔思魯の玄孫である。

顔思魯は顔之推の子であり、顔師古の父である。

顔家は、学者を多く輩出し、能書家であった。



安祿山は、“土門”の警備を気にかけ、“井けい口”の警備にも、何千人もの兵士を派遣した。

“土門”、“井けい口”は同じ通路の出入口の、二つの呼び名を持つが、一つの物である。

どこに、通じているのか?

この通路は、太原に通じるのである。

“太原”、唐王朝の発祥の地であるが、守り易い地であった。

李淵が、長安を目指した時、突厥と、取り決めをした。

太原は、北の草原にいる突厥しか、攻め込まれる心配がなかったのである。

太原は、南は黄河が、西も、僮関から流れを変える前の黄河が他の地と隔て、守っているのである。

西と南は、黄河が侵入を許さないのである。

南を流れる黄河の北の地は、西寄りに、太行山脈が南北に走り、東西に分けている。

太原の東は、太行山脈が守っているのである。

(だから、太原にいた李淵は、長安を手に入れるまで、太行山脈の東で、隋の後を狙って、多くの反乱軍が争っていても、その戦いに巻き込まれることはなかったのである。)

そして、この当時、東の地に行くために、一ヶ所だけ、太行山脈を横切る道がつけられていた。

太原から山東の地への出口が、“土門”(井けい口)なのである。

だから、安祿山は、太原から官軍が侵入しないように、土門を塞ごうと、多くの兵士を遣わしたのである。

河東節度使のある太原は、最近まで安祿山が支配していた節度使である。

太原から范陽節度使への道は、安祿山は、熟知していた筈である。

范陽、平盧の節度使の代理を決めた時、大同軍も同時に将を任命した。

大同軍が置かれているのは、太行山脈の終わった北端の場所である。

范陽とは、緯度が変わらない。

范陽は、安祿山の本拠地である。

土門を塞いだ場合、官軍の、大同からの侵入までも考えていたのである。

安祿山は、西からの侵入を、本当に気にしていたのである。

ちなみに、太原は、河東節度使の所在地であるが、太原の西を黄河が流れているので、河東なのである。

河西節度使は、曲がりくねり遡った黄河の西、涼州にある。

その少し南に隴右節度使(ぜん州)がある。

隴右節度使は、清海湖の東にあり、唐と吐蕃が国境を争うに相応しい位置にある。

だから、河西節度使は、河東節度使と、随分、離れた場所にあるといえる。

朔方節度使(霊州の霊武)は、河西節度使の東を流れる黄河の東に位置する。

范陽節度使は、范陽、(旧・幽州)にある。

平盧節度使は、長城の外の営州(今の、遼寧省)にある。

安祿山自身、営州に住み着いた時、長安経由でなく、蛮族らしく、長城の北の草原を駆けて営州に来たのかもしれない。

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