安祿山、挙兵す
天宝十四載(755年)、
十月四日、玄宗は、華清宮に行幸した。
吉温は、斥けられ、端州の高要尉に貶められていた。
玄宗は、臣下に言った。
吉温は、酷史の子である。
朕は、最近まで、あの者に惑わされ、用いていた。
しばしば、吉温は、朕に、罪人の軽重を決める時は、威厳と恩恵によって服従させるように、勧めた。
だが、朕は、その言葉を受け入れなかった。
今は、居なくなった。
卿たちは皆、枕を高くして、眠れるからな。
十一月、始寧太守、邏希せきは杖死となった。
吉温は、始興の牢獄で死を賜った。
安祿山は、范陽、平盧、河東の三ツの節度使を治めていた。
秘かに、謀叛の心を養い、はや十年。
けれども、玄宗が、厚く遇してくれるので、玄宗が亡くなってから乱を起こそうと、待っていた。
楊国忠は、安祿山が気に入らず、たびたび、
安祿山は謀叛を起こします。
と、言ったが、玄宗は聞かなかった。
楊国忠は、わざと何度も、安祿山が気に障るようなことをした。
そして、少しでも早く、謀叛を起こさせ、玄宗に、安祿山ではなく、楊国忠を信頼させようとした。
安祿山は、やましい事をしているので、身辺を探られると、都合が悪いのである。
だから、安祿山は、予定を早めて、謀叛を起こす決意をしたのである。
安祿山は、孔目官・太僕丞である厳荘、掌書記・屯田員外郎、高尚、将軍・阿史那承慶たちと、秘かに謀った。
彼らの職位は、朝廷の正式な役人である。
安祿山は、部下を、朝廷に出入りさせることによって、情報を得ようとしたのである。
特に、吉温の情報が、役に立った。
玄宗の近くに居たから、玄宗の言葉を直接聞けたのである。
だが、楊国忠のせいで、長安を出された。
河東節度使も、楊光かいが赴任して来ている。
安祿山を、朝廷に呼んで、三節度使を変えようとした時、河東節度使になる予定だった人物である。
楊国忠に推挙された男だから、当然、楊国忠の手先である。
この男も、処分しなければ。
いろいろ、話を煮詰めた。
安祿山の考えを、他の将兵たちは、誰も、何も知らなかった。
ただ、八月以来、たびたび、宴会が兵卒にふるまわれ、同じように、馬にも秣をうんと食べさせ、兵器の手入れをさせるのを、不思議がっていた。
そんな時、いつもは長安にいて、上奏するのが仕事の事務官が帰ってきた。
安祿山は、皇帝の勅書を作らせた。
そして、いかにも、その事務官が持って帰った物のようにして、皆を呼んで、見せて言った。
陛下から、秘密の命が下された。
この安祿山に、“将兵を連れ参内して、楊国忠を討て!”との命である。
諸君、直ぐに従軍するように。
皆は、驚き、お互い顔を見あわせた。
だが、誰も反対はしなかった。
十一月九日、
この日は、甲子の日である。
干支の最初の日である。
物事を最初に始めるのには、吉日とされている。
安祿山は、新しい出発の日に、この日を待ったのだ。
この日、安祿山は、節度使の兵と、同羅、奚、契丹、室韋の蛮族の兵、凡そ十五万人を、二十万人の兵と称し、范陽で挙兵をした。
そして、范陽節度副使・賈循に范陽を守るように、平盧節度副使・呂知誨に平盧を守るように、別将・高秀厳に大同軍を守るように、命じた。
各々の将軍は、皆、兵を率いて、夜、出発した。
挙兵の前に、各地の異を唱える者を制圧するためである。
夜明け、安祿山は、薊城の南に出た。
すべての兵を集めて、告げた。
楊国忠を討って、名を成す。
と。
傍らの軍の中から、
異議のある者、賛成出来ないと煽動する者は、斬る。
三族までもだ!
と、声がした。
ここで、安祿山は、兵を率いて、南に向かった。
安祿山は鉄の車に乗り、精鋭の歩兵と騎兵が、周りをかためて進んだ。
十五万の兵である。
兵馬が行き交うために起こる煙塵が千里続き、太鼓が、地面を震わせた。
天下は、久しく平和で、百姓は、代々、いくさ道具を見たことがなかった。
いきなり、范陽で兵が挙兵したと聞いて、近くの人も遠くの人も驚き、怖れた。
河北地方の人は、(安祿山が三ツの節度使をして、なおかつ、河北道采報使も兼ねていたので)、安祿山に統治されていた。
州県を過ぎると、メチャメチャな様子が見えてきた。
命令を守り、門を開けて出迎える所もあり、あるいは、城を捨て、誰も居ない所もあり、あるいは、殺された死体を見せしめにしている所もあった。
噂が届いていたのだろう、安祿山の兵たちを、あえて拒む者はいなかった。
安祿山は、将軍・何千年と高ばくを将とする奚の兵二十騎を、先に太原の宿場に行かせていた。
挙兵が伝わらない内に、と、急がせたのだ。
射生手を献じます。
と、河東節度使に伝えた。
十月十日、河東節度使・楊光かいは射生手を受け取りに行き、そこで、連れ去られた。
楊光かいは、楊国忠の手の内の者である。
安祿山が知らない内に、自分の地位に座っていた男である。
節度副使とも、節度使代理とも言われている。
安祿山も、どんな男か、見たかったのだろう。
太原(河東節度使)では、その時の様子をそのまま伝えた。
報告を受けた東受降城は、安祿山の謀叛を上奏した。
玄宗は、なお、安祿山を悪く言う者が作った話だと思った。
いまだに、信じなかった。