安思順の実績
哥舒翰は、長安を重い気持ちで後にした。
河西節度使に寄って、裴冕の顔を見れば、気分転換になるだろう。
李光弼を紹介しよう。
隴右節度使に、使いを遣って、“河西節度使で会おう、”と、言付けた。
使いの者には、
翰の後から着くように、ゆっくりでいいから、
と云った。
河西節度使に着くと、裴冕がおかしそうに笑いながら、迎えた。
話を聞いたのか?
はい、ご明察通りです。
霊剣は、手に入らなかったのですね。
格好わるい話だから、最後までは、云わなかった。
だが、武将たる者、霊の宿る剣を持つと、敵には姿が見えなくなり、宋青春が矛を振り回したように、力を発揮出きるとなると、欲しいものだ。
欲しいと思っても、交渉まではなかなかしません。
大夫は、お金持ちだから、話が出来たのです。
武将は、皆、羨ましいと思ったでしょう。
どんな宝とでも、交換するとか。
そこへ、李光弼が現れた。
あの耳切りの、宋青春の剣の話か?
ああ、持っていたら、闘う相手には、姿か見えなくなるという剣の話だ。
宋清春が死んで、李広ちんに渡ったというから、李広ちんに交渉したが断られた。
ある時、風雨の後、剣が光を放った。
光は、遠くまで照らしたと云う。
だが、霊力がなくなったと云うのに、譲ってくれなかった。
ああ、こんな話に時間をかけたくない。
光弼、上奏に行ったが、楊国忠に
私の間者に手を出すな。
と、云われたよ。
安思順は、安祿山と楊国忠、両方の間者だとわかったよ。
裴冕に、知恵を借りようと思って、ここにきたのだ。
だから、光弼も呼んだのだ。
大夫、こちらで、書類の整理をしていて、面白い物を見つけました。
安思順の、功績が記された古い記録です。
哥舒翰、李光弼、二人が同時に云った。
見せろ!
これです。
開元二年(714年)八月、吐蕃が渭源に侵入した。
だから、十月十一日に戦った、とのことです。
杜賓客、郭知運、王しゅん、そして、安思順と、書かれています。
それだけでなく、この時、王忠嗣の父上が亡くなっています。
この中の名前ですが、皆、名のある人ですね。
王しゅんは、兵部尚書にもなっていますし、以後、名前が出ないのは、安思順だけです。
調べたところ、当時、二十歳そこそこの安思順は、その時の、作戦で吐蕃の言葉をしゃべれる人が必要とされ、活躍したとの事です。
安思順は、互市牙郎をしていたので、選ばれたそうです。
作戦とは、吐蕃の兵士、十万人が夜、大来谷で寝ている所に(見られても、敵だと思われないように、)胡の服を着て行って、太鼓と、角笛を持ち、
敵だ。
唐の兵が来た。
などと、谷をはさんで叫ばせたのです。
叫びながら、太鼓をたたいたり、これは、“進め”ですね。
角笛を吹いたり、これは、“退け”ですね。
両方の音をたて、走り回るものですから、寝ていた兵たちは、寝ぼけて右往左往、敵だと思って、刀を振り回し、お互いを殺しあったのです。
その時、吐蕃の言葉が、役にたったという訳です。
十万人に聞こえるように、七百人もの人に一言づつ教え、“敵だ。”の隊、“唐の兵が来た。“の隊などを作ったそうです。
だから、隊を率いた隊長として、賞されたわけです。
そして、次の日、夜ですね。
同じことをした訳です。
それで、こちらは、ほぼ無疵。
捕虜も、多く得た訳です。
この昼の戦で、先鋒を仰せ付かった王忠嗣の父上、王海賓が亡くなっています。
あまりに、次々と、敵をなぎ倒すものだから、嫉妬され、次に続くはずの武将たちが、“我々が行かなくても、強いのだから”と、なかなか動かなかった、と聞いています。
だから、陛下が憐れんで、宮中で皇后様に育てさせたとか。
父一人、子一人だったのだな。
だから、王大夫、息子は、文官にしたのだな。
朝廷にいて、文官の存在を知って、息子には、自分と同じ思いをさせたくない、と。
子や孫と、楽しく毎日を過ごして欲しいと。
王大夫と、安思順、あの二人、長く、同じ節度使にいるのに他人行儀だと、思ったけど、いろいろ思うことが、あったんだな。
戦で死ぬのは、馬鹿だ。
とか、云ったそうだ。
王忠嗣の父親のことを、知らなかったのか?
知らなかった時のことだろう。
知ってたら、いくら何でも、云わないだろう。
だから、死なないように、李光弼に代理を任せて、自分は長安に行こうとしたのだな。
まあ、功績はあったのだな。
だが、武将ではないな。
いつも、馬に乗り、後ろで“ああしろ、こうしろ”
と、云って、情勢が悪くなると、一番に逃げる。
商売人だから、計算は早い。
怪我一つしないわけだ。
その代わり、功績もないがな。
胡服、七百人分も、安思順から、買ったのかもな?
いくら何でも、本人は一応、兵士だ。
自分では売れないから、他人の素振りをして弟が売ったとか。
弟は、小さすぎる。
安祿山も開元二年では、まだ小さい。
だが、弟よりは大きい。
体が大きいから、誤魔化せたのかもな。
売ったのは、安祿山かもな?
裴冕、安思順の人間がわかっただろう。
李林甫や楊国忠を見て、学んだんだろう。
陥れるのは、出来ないことはないだろう。
裴冕、やり方を、考えておいてくれ。
頼んだからな。
大夫、冕は、安思順を徹底的に調べます。
まずは、連絡方法です。
多分、鳩でしょう。
互市牙郎なら、存在と使い方を知っていたと思います。
飼っていたら、分かります。
飼っている時点で、間者と疑われます。
怪しいです。
人間、動くと、カタツムリではありませんが、必ず跡を残します。
まずは、鳩を見てみます。
鳩?
張九齢殿が、鳩を使って、友人たちと文を交わしたとか?
やはり、知っている方も、いらっしゃるのですね。
張九齢様は立派な方です。
あの方なら疑いませんが、他の方なら、冕は、疑います。
正しいやり方をしましょう。
後で心がザワついて、落ち着かなくならないように。
あの男に何があろうと、翰の心は、平然としている。
だが、分かった。
裴冕、そなたは、心を預けられる男だ。
よく、分かった。
裴冕、武将のことだが、信頼出きる武将はいらないか?
李光弼、本当は翰より、偉くて、当たり前の男だ。
だが、安祿山のことが心配で、少しでも情報を得ようと、下っ端で居るのだ。
実家が長城外の営州だから、范陽の方に行く、口実もあるしな。
契丹の酋長の家の出だ。
家が立派な分、冠婚葬祭、行事も多い。
出かける機会も多い。
苦労をかけている。
翰より、偉くて当たり前の男なのに・・。
裴冕は、文官として、優秀なのだな。
あんな古臭い書類を調べたりして、
いい情報だった。
河西節度使の武将として、李光弼を考えておいてくれ。
何でも出来る男だから、引く手あまただ。
何時までもは、いられない。
だが、兵士たちの戦う訓練をしばらくは、任せたらいい。
節度使、安思順が、なぜ間者だと、分かったのですか?
王大夫が、安祿山のところで、多くの武器を見た、と言っただろう。
その時、保管のやり方が、王大夫のやり方、そっくりだったのだ。
そんなの、どこも、同じだと、思うだろう。
だけど、うちの節度使では、王大夫中心に、我々皆で、意見を出し合い決めたのだ。
安思順、抜きでな。
弓を並べて、置くので、十本ごとの所の木に、印を付けるようにしたのだ。
一の位まで、一目で数が把握できるようにな。
その印は小刀で、丸く印を付け、筆で墨を垂らしたんだ。
安祿山の武器庫も、そこまで、そっくりだったのだ。
だから、伝えた者がいる、とね。
こうすれば、使い易い、とね。
うちの節度使の武器庫を見て、伝える者は、“安思順”しか、いないだろう。
武器庫で、こうなら、他のことも同じだ、とね。
我々の考え方、変かな?
楊国忠は、陳希烈を嫌っていた。
それを感じた陳希烈は、しきりに、辞意を表明した。
玄宗は、武部侍郎・吉温を次の宰相にさせたがった。
楊国忠は、吉温が安祿山の間者なので、玄宗に、
吉温は、いけません。
と、云った。
玄宗が気に入っているのは、わかっていたので、次の言葉が継げないような話をした。
吉温は、獄史をしていました。
李林甫に気入られ、出世したのです。
拷問が酷しいと、評判でした。
そのような人物を宰相になさるのは、いかがなものでしょうか?
驚いた様子の玄宗は、もう、何も云わなかった。
そこで、文部侍郎の韋見素を、
誰とでも和やかに付き合い、雅びです。
科挙にも受かっていて、知識もあり、宰相として、申し分ないでしょうか?
と、推めた。
八月二十三日、
陳希烈を太子太師とし、政事から退けた。
そして、韋見素を武部尚書として、同平章事を兼ねさせた。
同平章事は、宰相の位を意味する。
ただし、本官を持っていて、兼務の宰相職なのである。
だから、韋見素は、宰相になるために、武部尚書になったのである。
陳希烈は、楊国忠の権勢と玄宗の寵愛を畏れて、嫌われないように、意見一ツ云わず、何でも従っていた。
楊国忠としたら、云いなりになるのは都合がいいのだが、自分自身、学がないので、知らない事には、助言が欲しいのである。
一切何も云わないのは、居ないのと同じである。
その様子を見た玄宗は、陳希烈が宰相でありながら、発言がないのは、宰相として存在価値がないと、楊国忠と同じことを考えた。
玄宗が、宰相を代えたがったのである。
あんなに、御し易い人物を求めていた楊国忠は、中書省に出向いて、竇華、宋いくたちに、宰相に適任の人物を尋ねたのである。
希望としては、“意見が違った時は、折れる人”
と、云うことで。
竇華、宋いくの、お勧めは、“見た目が雅やかで、人当たりが柔らかく、制御しやすい、韋見素”とのことであった。
韋見素は、見るからに、仁者のようであったと、いう。
玄宗は、韋見素の父親が、叡宗に、我が身を顧みず、諫言をしてくれたことに恩を感じていた。
だから、“宰相に韋見素”、との提案に、快く賛成したのである。
天宝十三年(754年)
この年は長雨で、六十日以上、降り続いた。
玄宗は、宰相の才能が未だに職務に相応しくないので、天が咎めの印を見せているのではないかと、“品行方正な人”を探し求めるように、楊国忠に命じた。
本来は、宰相自らが、解決に走り回るべき事案である。
今までも、あったことだ。
長安城に巫術を施すのだ。
皇帝が、指図する方がおかしいのである。
が、それ以上、何も云わなかった。
この年が去ったけれども、水害、旱魃が相次いだ。
楊国忠は、己の悪いことを京兆尹の李けんが悪いとし、そして、災いの咎も李けんのせいにした。
九月、
罪を問われた、李けんは、長沙太守に、貶められた。
玄宗は、実った稲の穂が雨で傷つかないか心配した。
楊国忠は、稲の穂の良いところを献じて、
雨が、多いと云えども、稲に害はありません。
と、云った。
玄宗は、その通りとした。
扶風太守の房かんは
私のところでは、水害で困っています。
と、云った。
楊国忠は、御史を使わし、責め問うた。
報告一つで、責められた房かんをを見て、敢えて災害を云う者は、天下に居なかった。
房かん・・李適之と親しくしていた事で、李林甫に、給事中から、宜春太守に貶められた男である。
あれから、七年、宰相が変わっても、世の中、変わってないと、実感したことだろう。
玄宗は、高力士が側にいた時、
止まない、嫌な雨だ。
卿は、云いたいことがあるんだろう。
と、云った。
陛下は、みずから、権限を宰相に委託されました。
賞罰は明らかにできません。
陰陽(天地間にあって、万物を構成する二つの気)の、均衡がとれていないのです。
私が敢えて、何を云うのです。
と、高力士は答えた。
玄宗は、黙ったままだった。
十月二十三日、
玄宗は、華清宮に行幸した。
河東太守兼本道采訪使・韋ちょくは、韋ひんの兄であった。
韋ちょくは、文事に優れて風流であった。
玄宗の好きそうな人物である。
楊国忠は、韋ちょくが宰相になるのではと、恐れた。
そこで、人を使って韋ちょくの汚職事件を告発した。
御史に罪を調べさせ、吟味させた。
韋ちょくは、中丞の吉温に、金品を贈ったとのことであった。
吉温は、安祿山に助けを求めて、使いを送った。
この疑獄事件も、楊国忠のしたことであった。
一ツの事件で、二人の邪魔者を始末したのである。
李林甫に鍛えられ、上手いものであった。
十一月十一日、
韋ちょくは、桂嶺の尉に、
吉温は、れい陽長史に、貶められた。
安祿山は、清華宮にやって来た。
安祿山は、吉温の罪を許すよう玄宗に頼んだ。
そして、楊国忠を激しく罵った。
玄宗は、何も云わなかった。
吉温の来歴を知った玄宗は、吉温を見放したのである。
十二月二十八日、
玄宗は、長安に帰った。