王思礼
天宝十三年(754年)
三月、哥舒翰は、安祿山が、多勢の部下を昇進させたと聞いて、“我が節度使の部下にも”と、論功を理由に、隴右節度使・十将の特進を願い出た。
火抜州都督・燕山郡王・火抜帰仁を驃騎大将軍に、臨とう太守・成如きゅう、討撃副使・范陽の魯けい、こう蘭府都督・渾惟明は、雲麾将軍、
隴右討撃副使・郭英乂を左羽林将軍、厳武を節度判官、河東節度使の呂を支度判官、前封丘尉の高適を掌書記、安邑の曲環を別将にした。
あと一人、河原軍使・王思礼もいた。
王思礼は、つい先日、哥舒翰が用事を仰せつかり出かけた際、落馬して、足に怪我をした。
相手があることなので、哥舒翰は、そのまま出かけた。
ただ、その場から動かさないようにし、軍の医者を呼び、治療を頼んだ。
そして、周りに向かって、
王思礼は、我が節度使のお金を握っている。
我が節度使は、王思礼の節約のお陰で、豊かである。
一文たりとも無駄にはしない。
そなたたちも、よく分かっていることと思う。
それに、王思礼は、武将として強く、勝れている。
怪我によって、強さが半減することを心配する。
翰は、この機会に、今までの苦労に報いたい。
王思礼の怪我が、少しでも、治るようにしたい。
皆も、労ってくれ。
翰は、出かけるが、王思礼のことを、宜しく頼む。
と、云って、その場を去った。
医者には、
怪我を、少しでも良く直したい。
なんなら、馬車で節度使の方に連れかえるように。
翰を待つ必要はない。
と、云った。
王思礼は、節度使で、安静にしていた。
だが、人の心は、変わりやすい。
哥舒翰は、心配した。
隴右節度使の特進を願い出たのは、王思礼の怪我がきっかけである。
安祿山の前例がある。
ちょうど、良かった。
離れた場所でゆっくり治そう。
そのために、金城郡太守を願い出たのだ。
そして、すぐに、馬車で金城郡に送り届けた。
出発の時、
きちんと、治して、上手に歩けるようになったら、帰ってこい。
封常清より、上手く歩けよ。
と、云った。
王思礼が哥舒翰と会えたのは、王忠嗣のお陰だった。
王思礼は、高麗人であった。
滅んだ国から、流れてきて、営州に居着いた一族だった。
父親は、朔方節度史で、軍将をしていた。
だから、父親からは、ただ、闘いだけを学んだ。
つまらなくなると、時々、蛮族の地をうろついた。
そんな時、王忠嗣に会った。
肉の塊を二つに分けながら側に来て、一つを握らせてくれた。
付き合ってくれ。
と、云った。
食べ物の心配をしてくれた、いい人だった。
だから、
一緒に行くか?
と、聞かれ、喜んで
うん、
と、答えた。
夜は、字を教えてくれた。
今まで、こんな人に会ったことはなかった。
筋がいいと、褒めてくれた。
河西節度使に着いた。
節度使、だったんだ。
偉い人だったんだ。
これからは、昨日までのようには、出来ないから、
と、哥舒翰に、
翰殿は、豊かな知識をもっているから。
と、頼んでくれた。
学ぶばかりじゃつまらない。
身に付かない。
節度使の、会計を委すからな。
と、云われた。
それと、字は、書き順をきちんと、守るように。
後で、字が上手になったら、くずしても、他の人にも、よくわかるから。
と、云われた。
最初は、大変だった。
筆の使い方からして、くにゃくにゃして、同じ太さの線が書けなかった。
だけど、王忠嗣が哥舒翰に
翰殿は、教え方が巧い。
なんて云うものだから、哥舒翰も、ぶつぶつ云いながらも親切だった。
会計だから、計算もした。
だけど、市で買い物をしたりして、すぐに出来るようになった。
哥舒翰が、間違ってないか、見てくれた。
二人で旗を持っている時も、指で空中に書いて練習した。
帳簿をつけていたので、筆にも、早く慣れたし、字も早く覚えられた。
哥舒翰は、あんな風に云ったけれども、思礼は、王忠嗣に教えられた通りにしているだけだ。
王忠嗣は、手を抜くと、なにも云わないが、悲しそうな表情になる。
ちゃんとしていると、うれしそうな顔をして、
すごいな、とか
上手になったな、とか
云ってくれる。
思礼も哥舒翰も、王忠嗣に褒められたくて、頑張ったと、思う。
今では、きちんとしなければ、自分が落ち着かない。
これも王忠嗣のお陰だ。
思礼は、運がいい。
人生のはじめの方で、王忠嗣に会えた。
思礼は、幸せ者だ。
長安では、程千里に捕まった阿布思が、朝廷に献上され、斬られた。
普通、長安城の処刑場は、東市の道を隔てた前、すなわち、勝業坊の前の狗脊嶺と、もう、一か所、西市の一本柳(独柳)の場所がある。
この二つの処刑場が、普段使われる。
だが、阿布思の処刑は、朱雀門街で行なわれた。
捕縛に手間取り、阿布思は、有名になったので、見物人が多いと考えられたのであろうか。
死刑のことを棄市と言うように、死体は、そのまま、市中に放っておかれる。
見せしめの、意味がある。
三月二十八日、
阿布思の件によって、程千里は、金吾大将軍となった。
封常清は、北庭都護、伊西節度使になった。
六月、
侍御史、剣南節度使の代理である、李ひつは、武将、兵士七万人で南詔を討ちに出かけた。
閤羅鳳は、奥に深く誘い込んだ。
閤羅鳳の居る大和城に着いた。
門は閉ざされ、戦は出来なかった。
李ひつは、食料が尽きた。
兵士たちは、病気にかかったり、飢えたりで、十人中、七、八人が死んだ。
そこで、引き返そうとした。
すると、蛮族が追って来た。
李ひつは、捕らえられた。
全軍が、皆死んだ。
楊国忠は、また、その敗戦を隠した。
さらに、勝ち戦とした。
殺された中国の兵士は、ますます増え、合わせると、二十万人近くになった。
だが、口にする者は誰もいなかった。
楊国忠の仕返しが、恐かったのである。
玄宗は、高力士に、
朕は、もう年老いた。
朝廷のことは、宰相に委せて、辺境のことは、それぞれの将軍に委そうと思う。
何の憂いがあろうか。
と、云った。
高力士は、
雲南では、幾つもの軍隊がやられ、と聞きます。
また、返境の将軍は、抱える兵士の勢いが盛んだと云います。
陛下は、まさに、何をもってこれらを制御なさるのですか!
一度、過ちが起きると、元に戻せないのではないかと、私は、不安でたまりません。
何を得たから、憂いがないのですか?
玄宗は、
卿、もう、云わないでくれ。
朕も、なんだか、そう思えてきた。
と、云った。
七月二十日、
哥舒翰が、
九曲の地に、とう陽郡、澆河郡、および、神策軍を置いて、もって、臨とう太守、成如きょうをとう陽太守を兼ねさせ、神策軍使と、したいと思います。
と、上奏した。
本当は、こんな些細なことの上奏の為に長安に、やって来たわけではなかった。
朔方節度使の安思順のことを、上奏しようとしたのである。
だが、楊国忠に阻まれたのである。
国忠の間者だから、手を出さないように。
と、
やって来て、なにもせずに帰るのは、様にならない。
だから、考えた挙げ句の話の、上奏なのである。
李光弼・・・王忠嗣がいつも、褒めていた男である。
あの李光弼が、朔方節度使・安思順に、副節度使と、節度使代理になるように、言われたと云う。
その任を受けたものの、二人で話をしていて、
妻と子どもを愛するがゆえに、長安に行く。
と、聞いた。
妻と子どもと住むために、朔方節度使の代理を置くとのことである。
中央から、離れられない偉い人は、遥領と称して、赴任しない。
だが、安思順は、他に官職を持っていない。
長安に行く必要はないはずである。
節度使としとの責任が、まるで考えられていない話だ。
武将として、辺境を守るのは、国の安全を護るためだ。
それが、妻子を守ることになる。
節度使が、妻子へと住むのために、節度使を留守にしようとするとは。
話を聞いた李光弼は、その場で病気と偽り、朔方節度使の役を、すべて辞めた。
そして、隴右節度使の哥舒翰の元にやって来たのだ。
哥舒翰に、
節度使の任務より、妻子を大切に考える安思順は、節度使として不適切であると、上奏すべきである。
と、云ったのである。
共感した哥舒翰は、
安思順を罷免すべきである。
と、上奏するために、長安に来たのだ。
だが、楊国忠は、
その上奏は、哥舒翰が云っても、国忠が陛下に安思順を褒め讃えるから、意味を成さないだろう。
哥舒殿は、陛下の前で、宰相と云い争うつもりか?
と、云ったのである。
哥舒翰は、安思順の上奏を断念した。
だが、楊国忠と安思順の繋がりは、わかった。
安思順は、安祿山側と、楊国忠側(国側)の両方の間者だったのだ。
“次は、楊国忠を押さえ込んでも、確実に、射止めてやる。”と、誓った。