謀叛の準備
天宝十三年(754年)
一月十日、玄宗は、長安に帰った。
安祿山は、閑厩使と群牧使を求めた。
一月二十四日、
安祿山は、閑厩使と、隴右群牧使に任じられた。
安祿山は、今度は、群牧総監を要求した。
一月二十六日、
安祿山は、群牧総監も兼ねることになった。
安祿山は、御史中丞の吉温を武部侍郎、および閑厩副使とするように上奏した。
聞いた途端、楊国忠は、吉温が自分・揚国忠から、安祿山に寝返ったと知った。
楊国忠が、哥舒翰を抜擢したように、関係を良くしようと上奏したのだろう。
かつて、吉温は、李林甫から、楊国忠に寝返った。
吉温は、計算高い男だ。
計算したあげく、安祿山に付いたかと思うと、憎かった。
安祿山の方を上に見たということだ。
安祿山の希望は、玄宗によって、すべて叶えられた。
思い通りになった安祿山は、密かに書状を送り、
“戦に使える健康な馬を数千頭選び、別に飼育するように。”
と、副使の吉温に伝えた。
二月十一日、
楊国忠は、司空に位を進めた。
安祿山の願いをすべて叶えた玄宗は、不満そうな楊国忠には、位を上げることでしか、なだめる方法はないのであった。
この時、楊国忠はご機嫌であった。
司空になったからだけでは、なかった。
秘密裏に、安思順から連絡があったのである。
安思順は、
安祿山は必ず、謀叛を起こします。
と、云った。
范陽に住む弟・安元貞が、安祿山が、側近と話すのを、隣の部屋で聞いたそうです。
との、ことである。
朝賀のため、長安に来ていた安思順は、宴会で、久し振りに会った安祿山に、
誰のお陰で節度使になれたと、思っているのだ。
と、罵られたと云うのだった。
恥をかかされたのだ。
ここにも、安祿山を恨む者がいる。
身内からも嫌われている。
楊国忠は、段々、心が軽くなった。
安思順は、
何かあった時は、どうか、お守り下さい。
安祿山は、力を持っています。
弟からの情報ですから、頻繁にお伝えは出来ません。
けれども、出来るだけ、安祿山の事を調べます。
証拠を集めます。
どうか、節度使の地位と、命をお守り下さい。
楊国忠様しか、私を守れないでしょう。
と、懇願したのである。
私、楊国忠に、な。
いつかは、あいつの尻尾を掴めるだろう。
つい、ニンマリした。
気分が、いい筈である。
二月十八日、
司空の冊命の時、玄宗は、玉座が高い場所にある朝廷ではなく、冊書を受ける者と、同じ高さに玉座を置いてある、平らな場所の宮殿を選んで、式を行った。
仰々しさがない分、それだけ、皇帝と臣下の間に、親しみがわくであろう、と考えてのことであった。
玄宗も、楊国忠に対する気の使い方は、なかなか大変である。
二月二十三日、
安祿山は、
祿山の処の武将や兵士は、渓、契丹、九姓、同羅などとの戦で、とても多くの手柄を立てています。
だから、その肩書きに拘わらず、資格以上の褒美を授けたいと、思っています。
よって、祿山が、好きに書けるよう、朝廷から授ける辞令の文書を白紙でいただきたいのですが?
それには、将軍を除く五百余人。
中郎将者二千余人、を考えています。
と上奏した。
安祿山は、謀叛をしようとしていた。
だから、その前に、この白紙の辞令書を見せ、眼の前で名前を書いて、部下を昇進させ、恩を売り、部下の心を得ようとしたのである。
三月一日、
安祿山は、范陽に帰ろうと、暇乞いに来た。
玄宗は、着ていた衣を脱いで、賜った。
安祿山は、驚き、かつ喜んだ。
皇帝の衣を賜る事は、皇位継承ではないが、それに、近い意味を持つ。
龍が意匠として、何個も刺繍されている。
龍は、皇帝の象徴なのだ。
龍袍は持つことも着ることもできない。
持ったり、着たりすれば、死刑となる。
そこら辺りの物を賜ったのとは、訳が違う。
意味があるのだ。
だが、衣を授けた玄宗は、そこまでは、考えていない。
ただ、宰相にしなかったので、“悪いな”と、いう思いがあった。
だから、賜ったことによって、自分の気持ちの“後ろめたさ”を、消したかったのである。
安祿山が、玄宗の衣を過大解釈したものだから、楊国忠に気付かれて、取り返されては大変とばかりに、大急ぎで潼関を出た。
そして、黄河の流れに乗り、下って行く船なのに、船夫に命じて、縄の付いた板を胸に付けさせ、曳かせたのだ。
船夫は、それこそ、流れに乗った軽い船だから、走るように曳いたと想像できる。
昼夜休みなく、日に数百里進んだ。
船夫は、何度も交代させた。
群や県を通り過ぎ、どこの港にも、止まらなかった。
このころから、“安祿山は、謀叛を起こす”と云った者は、安祿山のもとに送られるようになった。
だから、人は、皆、“安祿山が謀叛を起こす”と、知ってはいても、口にする者は、誰もいなかった。
安祿山が、長安を出発した時、玄宗は、高力士に、長安城の東の長楽坂まで送らせた。
高力士が帰ってきたので、玄宗は、
安祿山は、心安らかであったか?
と、聞いた。
あれだけ、意に沿うようにしてやったから、喜んで帰ったと、思っていたのである。
対して、
見る処、面白くなさそうでした。
あれは、必ず、宰相になる命令が、中止になったのを知ったからだと、思われます。
それ以外、考えられません。
と、答えた。
玄宗は、楊国忠に、高力士の話を伝えた。
楊国忠は、
この話は、誰も知りません。
知っているのは、張きだけです。
絶対、張きか、兄弟が告げたのでしょう。
と、言った。
玄宗は、怒った。
朝廷での出来事を漏らすのは、罪を問われて、当然である。
仕事の秘密を、漏らすなんて。
張均を建安太守に、張きを盧渓司馬に、弟、給事中しゅくを宜春司馬に貶めた。
仕方のないことである。
張説の息子だから、降格ですんだのである。
息子たち、特に張きは、ふ馬都尉・婿でもあるので、甘えもあったのであろう。
殺されても、おかしくは無かったのである。