詩人たち
天宝十三年(754年)
一月三日、安祿山が入朝して来た。
この時、楊国忠は
安祿山は、必ず謀叛を起こします。
そして、続けて、
陛下、試しに召してみなされ。
必ず、来ませんから。
と、言ったのである。
だから、玄宗は、召すように、使いを送ったのである。
安祿山は、玄宗の命に従い、直ぐにやって来た。
一月四日、
華清宮で、玄宗に会った。
泣きながら、
祿山は、蛮族です。
陛下は、祿山を好いてくれて、抜擢して下さったので、ここまで来れたのです。
だから、楊国忠に憎まれることになりました。
祿山は死にたいと思わない日は、ありません。
と、言った。
玄宗は、可哀相に思い、巨額のお金を賜った。
そして、これより、ますます安祿山を親しく信じた。
楊国忠の言葉は、もう耳に入らなかった。
皇太子もまた、
安祿山は、必ず謀叛を起こします。
と、言った。
だが、玄宗は聞かなかった。
唐の初めの頃は、詔勅はすべて、中書省の文章力のある役人が、作っていた。
乾封(666、7年)高宗の時代以降は、元万頃・范履氷らの文士がいろいろな形の詔勅の草案を作るようになった。
常に、北門から出入りしたので、当時の人は“北門学士”と呼んだ。
中宗の時代には、上官昭容が詔勅関係のことを、担当した。
玄宗が即位すると、“翰林院”を置いた。
翰林院は、禁廷(皇帝の私的空間)に近く、文章の士から始まり、下は、僧侶、道士、書家、画家、琴の演奏家、棋士、工芸などのいろんな術を持つ者が、ここに集まった。
“待詔”という。
刑部尚書の張均、弟・太常卿の張きが、“翰林院供奉”であった。
(お昼から酒を呑み、呼ばれた時だけ、詩を詠む)あの李白も、翰林院供奉であった。
李白は母親のお腹に居るとき、長庚星(太白・金星)が口に飛び込んだ夢を見て、命名されたとされている。
旅をしていて、道士の呉いんと気が合い、一緒に“せん”で、隠遁生活をしていた。
呉いんが、玄宗に召され翰林院供奉になった時、李白を推薦したのである。
李白は、長安に呼ばれた。
宮中で、賀知章が李白の詩を見た。
あなたは、天上からこの世に流された仙人です。
と、驚いた。
仙人!
聞いた玄宗は、老子が目の前に現れた気がした。
老子を唐の遠祖とし、廟を祀り、“玄元皇帝”と命名して、日を決めて供養している。
神仙の世界は、陳希列など、専門にしている者にも聞いたりしている。
だが、身近に感じることは出来ない、空想の世界であった。
玄宗は、李白を見た。
頬が弛むのが、わかった。
たとえ、体は人でも、仙人と呼ばれる人物が傍にいるのは、嬉しかった。
離れたくなかった。
二人で語らった。
食事を賜った。
遅くなったから、仕方なく、帰らせた。
かつてない、充実した一日であった。
詩の仙人、李白を手に入れた玄宗は、自分の時代に才能ある詩人を得たことを、喜んだ。
李白を特別だと思うから、野放図を許せたのだろう。
それが、手放さなければならない原因となったのだが。
李白は、宮廷を出され、旅を始めてすぐに杜甫と出会った。
詩を詠む同志、一緒に旅をした。
また、共通の友・高適も同行した。
何度も科挙に落ち、仕官の道を探していた杜甫は、朝廷に詳しい李白にあれこれ尋ねただろう。
偉い人のよもやま話も、楽しく聞いたであろう。
杜甫は、李白の詩の作り方を、傍で見ていて、勉強になったであろう。
影響を受けたであろう。
お互いに。
二人は、十一才の年の差であった。
杜甫は、三十才半ばであった。
一年程、三人で旅をした。
その頃の風習として、二十歳前後で家を出て、各地を旅し、見聞を広めながら、人脈を作るというのが普通であった。
だから、旅先で知り合った立派な人に、詠んだ詩を気に入ってもらって、紹介してもらうなどの、仕官のやり方もあるのである。
道士・呉いんの紹介で任官した李白も、この形と云える。
旅の後、科挙を受けるのが当時の習わしであった。
科挙も、選者は人である。
やはり、知った受験者には、甘い採点となる。
だから、人脈が生きるのである。
結局、旅の最終目的は、仕官なのである。
杜甫は、すでに婚姻をしていて、子供もいた。
杜甫の父親・杜閑は、祖父・杜審言が科挙に受かっていたので、恩蔭の制を使って仕官していた。
だから杜甫は、役人の父親が生きている間、生活は援助されていた。
裕福でなくても、困ってはいなかった。
祖父・杜審言は詩人として、名前も知られていた。
杜審言は、自分の能力に自負心を持っていた人であったようだ。
自分の詩と比べ、平気で他人の(たとえ、高官であろうとも)詩を、人前でけなした。
話を聞いた人の方が、その表現のキツさに驚いたようだ。
ある時、杜審言は、事件に連座して、牢に入れられた。
その担当の役人を、十三才の息子・并が(杜甫にとっては伯父)、袖に隠した刀で殺すという事件があった。
并は、近くにいた人に、直ぐに、殺された。
ただ、刺された役人が
杜審言は、孝行な息子を持っている。
私は、自分の過ちでこのようになった。
と、言って亡くなった。
子供だからと、庇ってくれたのだ。
杜審言は、このことにより、免官となった。
だが、その後、武后様に召された。
武后様は文学が好きである。
詩人としての杜審言を認めていたのであろう。
杜審言は、張易之兄弟と親交を深め、武后様の死後、嶺外に流された。
帰ってきて国子監主簿、修文監直学士となった。
そんな祖父を、杜甫は持っていたのである。
玄宗は、安祿山に今の官職に加えて、“同平章事”に任じたいと、張きに制を草案するように命じた。
楊国忠が諫めて、
安祿山は軍功はありますが、字が読めません。
どうして、宰相になれますか?
制書は書かずに、そのままにして下さい。
四方の蛮族が、唐を軽く見るのを畏れます。
と、言った。
そこで、玄宗は止めた。
一月九日、安祿山に左僕射を加官した。
子供一人に三品官、もう一人に四品官を賜った。