楊せんの科挙受験
九月、
北庭都護・程千里が阿布思を磧西まで追い、そこで、葛邏祿に、阿布思は罪人なので、それなりに対応するように、書状を送り、諭した。
追われた阿布思は、困りはて、葛邏祿に帰った。
葛邏祿の葉護が阿布思を捉え、妻子と、部下数千人と共に長安に送った。
褒美に、葛邏祿の葉護・頓ひ伽は開府儀同三司と、金山王の爵を賜った。
十月十一日、
玄宗は、華清宮に行幸した。
楊国忠とかく国夫人の屋敷は、隣あわせで、昼夜区別なく、時間も決まりも無く往き来していた。
いつも、二人は並んで馬を走らせ、参内した。
女子が外出する時は、普通、必ず障幕で顔を隠すようにするのだが、かく国夫人は、使わなかった。
道を通る人は、見ないように、眼を背けた。
人は、“雄狐”と呼んだ。
雄だから、当然、楊国忠のことを云ったのだろう。
毎日会う、玄宗と楊貴妃の公然と親しくする様子に、影響を受けたのかもしれない。
韓国夫人、かく国夫人、秦国夫人の三夫人は、玄宗の華清宮、行幸にお伴するため、楊国忠の屋敷に集合した。
馬車も、馬も、下僕も、従者も多く、いくつもの坊に溢れた。
錦、刺繍、宝石、玉、鮮やかで華麗な物が眼を奪った。
楊国忠が客に云うことには、
我が家は、もともとは、貧しい家だ。
一朝、お妃様の縁でここまで来た。
いまだに、落ち着くところがわからない。
しかしながら、立派な名前に至らずに、終わるだろう。
だから、楽しむだけだ。
楊氏の五家は、家ごとに色を決め、衣など、区別がつくようにしていた。
五家が一緒になると、雲や錦のように鮮やかであった。
楊国忠が、前に立ち、剣南節度使の旗を持ち、皆を引きいた。
楊国忠の息子・せんは科擧の明経科を受けた。
学業は、深くなく、みすぼらしいものであった。
礼部侍郎である、達奚しゅんは楊国忠の権勢を怖れた。
息子の達奚撫は、華清宮のある、昭応の尉をしていたので、遣わして、先に伝えた。
達奚撫は、楊国忠が馬に乗って、参内するところを見て、馬の処まで、小走りに、駆け寄った。
貴人に対する礼である。
楊国忠は、子供が必ず受かると思っていたので、顔は喜びで満ちていた。
達奚撫は、
選者が云うには、若君の試験ですが、規定の中ではなかったとの事です。
しかし、いまだ落ちたと、いうわけではありません。
楊国忠は、怒って云った。
我が子が、富貴でないことを、何で思い悩まなければならんのだ。
取るに足らない者が、互いに売り買いしているのだろう!
馬にムチを当て、振り向きもせず、去って行った。
達奚撫は、怖れ慌てた。
書状で父親に云った。
楊国忠は、その立場と、勢力を頼みにしています。
立場が立派な人は、その気持ちを見せません。
楊国忠は違います。
良いことと悪いことを、また、論じるべきですか!
遂に、楊せんの成績を上に置いた。
科擧に受かった、楊せんは、戸部侍郎になった。
達奚しゅんは、礼部から吏部に移った。
達奚しゅんは、ある日、楊せんと、親しく言葉を交わした。
楊せんは、人柄もよいとは思えなかった。
立場に相応しい人物とは、思えないのである。
成績を上げたままにしていて、撤回しなかった自分が悔やまれた。
心のわだかまりが大きかったのだろう。
達しゅんは、すぐに、病気になった。
楊国忠は、すでに、重要な地位にいた。
国内からも、国外からも、車輪の中心に周りから支える軸が集まるように、贈り物が集まった。
かとり絹が、三千万匹積まれるに至ったという。
華清宮にいる玄宗は、夜、遊びに出かけようとした。
龍武大将軍・陳元礼は、
宮殿の外は、即ち、広野です。
備えもなく怖れもないのは、安心できません。
陛下が夜、遊びたいとお思いでしたら、長安城に帰ることをお願いします。
玄宗は、仕方なく、引き返した。
この年、安西節度使の封常清が大勃律を撃ちに出かけ、菩薩労城に至った。
先鋒の方では、たびたび勝っていた。
封常清は、勝ちにのって進んだ。
斥候府の果毅・段秀実が忠告した。
封常清は初めてだが、部下たちは、慣れているのだ。
囮の兵が北の方に満ちています。
我らを誘っているのです。
左右の山林の中を探して見て下さい。
封常清はその言葉に従った。
はたして、多くの伏兵が潜んでいた。
だから、捕まえた。
遂に、大破した。
大勃律の投降を受け入れ、帰還した。
玄宗は、タラス河の大敗の不名誉を挽回したと、思っただろう。