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蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
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李林甫の獄

天宝十二年(753年)

一月、京兆府の尹である鮮于仲通が、

(京兆府の尹であった楊国忠が、剣南節度使になった時、入れ替りに、鮮于仲通を京兆府の尹に据えたのである。)

楊国忠の功績などを讃えた柱を中書省の門の処に立てたいので、諳じる人を選んでいただきたいと、玄宗に、お願いした。

鮮于仲通にその言葉を選ぶように、指示が下った。

だが、玄宗は、改めて、文字の数を決めた。

宮中に立てるものだから、あまりにも長ったらしくて、仰々しいものは臣下の物として、相応しくないと、考えたのだ。

鮮于仲通は、その彫られた字に金を嵌め込んだ。

見るからに立派な碑である。

宰相として、見てくれを気にする楊国忠は、大喜びであったであろう。

真に、楊国忠は、“奇貨”だったのである。

楊国忠は、人を使って、

”李林甫と阿布思の謀叛”で、阿布思の部落から投降してきた者に、

“李林甫と阿布思が義理の親子の約束をしていた。”と、長安に来て、証言させるように、安祿山に頼んだ。

玄宗は、この話を信じた。

役人を使って、罪を調べさせた。

李林甫の婿である、諫議大夫、楊斉宣が巻き添えになるのを怖れて、楊国忠の意向にそって証言した。

だから、ウソの証言である。

その時、李林甫は、まだ埋葬されていなかった。

二月十一日、

李林甫の官爵が奪われた。

子供や孫たちで、役に着いている者は辞めさせられ、嶺南や黔中に流された。

身に着けている衣や食料は貰えた。

だが、財産で罪を償わされ、官職は没収された。

近親や一族の者は連坐したとされ、五十人以上の人が貶められた。

李林甫の棺は壊され、体を腐敗させないように口に入れていた玉は、こじ開けられて、出された。

(中国の人は、死体を大切にする。当時、玉は死体を腐らせないと、信じられていた。)

金紫の高官の衣は剥ぎ取られた。

当然、遺体はムチ打たれた。

そして、庶民の葬式に使うような小さな棺に入れ変えられた。

二月二十七日、

陳希烈は許国公、楊国忠は魏国公の爵を賜った。

これは、“李林甫の獄”を証明した、ご褒美であった。

なにを今更、死んだ人をムチ打つなんて、と言われそうだが、李林甫が楊国忠になにをしようとしたか、楊国忠は、知ったのである。

涙を流しながら、李林甫は、頼んだ。

だが、楊国忠を嵌める準備をしていたなんて。

なんて、図々しいのだろう。

その、腹立たしさが、原動力となっての、今回の、“李林甫の獄”なのである。


阿布思は回鶻に負けた。

安祿山は、安祿山の所に投降してくるように、誘った。

それから、安祿山の兵士は、強くなり、天下に及ぶ者はいなくなった。

阿布思が指導したのであろう。

やはり、阿布思は才覚があったのである。


六月二十三日、

左武衞大将軍、何復光が、嶺南の五府、広、桂、よう、蒙、交の兵士を使って、南詔を攻撃した。

嶺南は、唐の南方で、海に近い処である。

随分、遠くから兵士を連れて行ったものだ。

剣南節度使では、集めようにも、すでに、兵士となって死んだ者ばかりで、戦えるような男がいなかったのかもしれない。


安祿山は、李林甫が自分より、悪賢くずるいと、畏敬の念を持っていた。

楊国忠が、宰相になるに及び、軽く見た。

なぜなら、自分が階段を乗り降りする時、手助けをしていた男だ。

従者のような真似をしていた男だ。

自分にへいこらしていた男だ。

今さら、とても、恭しくなぞ出来ない。

どうしても、気持ちは、態度に現れる。

楊国忠は、その様子を見て許せなかった。

宰相に対する態度ではない。

官位からいえば、楊国忠の方が上なのである。

腹立ち紛れに、楊国忠は、根拠もないのに、たびたび、玄宗に、“安祿山は謀叛を起こします。”と言った。

だが、玄宗は聞かなかった。



隴右節度使、哥舒翰は、吐蕃を攻撃して、洪済城、大漠門城など九曲部落をすべて、手に入れた。

河西の九曲の地は、元々、唐の物であった。

景龍四年(710年)

金城公主(王守礼の娘)の婚姻の時、化粧料として、考えられていたのだが、それを知った吐蕃が、持参金として欲しいと懇願したのである。

化粧料は、公主が生きている間の自由にできる小遣いである。

だから、公主が死んだら、唐に返ってくる事になる。

けれども、持参金は、持参した時渡すものであり、挨拶料のような物で、返ってはこない。

公主が吐蕃で肩身の狭い思いをしないように、吐蕃の願いに応えたのである。

ネパールの王女が少し前に、輿入れしていたからでもある。

婚姻により、吐蕃との関係が良くなり、“戦がなくなれば”と、考えていたが、まるで、関係がなかった。

今まで通りに、侵入してきた。

そして、都合が悪くなると(負けそうになると)“赦してほしい”と、云ってきた。

公主のこともあるので、仕方なく赦した。

公主は、開元二十八年(740年)、亡くなった。

だから、もう遠慮はいらない。

今まで、我慢していた分、哥舒翰が活躍してくれた。

力で取り戻したのだ。

“ああ、スッキリした”が、玄宗の本音だろう。


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