李林甫の死
六月、楊国忠は
吐蕃の兵六十万人が、南詔を加勢するため、遣わされましたが、剣南の兵が雲南でこれを撃ち破りました。
そして、隰城ら三城を取り戻し、捕虜六千三百人を得ましたが、長安までの道のりが遠いので、壮健な者千余人と、投降した酋長を献上したいと思います。
と、玄宗に上奏した。
有能なところを、示したのである。
秋、八月、
玄宗は、また、左蔵庫を訪れて、臣下に錦を賜った。
楊国忠が
左蔵庫の屋根で、鳳凰が群れをなしてが飛んでいるのを、出納判官、魏仲犀が、通訓門で見ました。
と、上奏した。
九月、
阿布思が、唐に侵入して永清柵を囲んだ。
けれども、通れるように柵の一部を壊すのを、柵使の張元軌が拒んだ。
十月五日、
玄宗は、華清宮に行幸した。
十月二十六日、
通訓門を“鳳集門”とした。
祥瑞を記念にしたのである。
魏仲犀は、殿中侍御史となった。
左僕射兼右相の李林甫が、
南詔が、たびたび侵入してくるので、蜀の人人が、節度使の楊国忠に鎮圧して欲しいので、赴任してもらいたいと、請うてきました。
と、上奏した。
楊国忠は、管轄する節度使の事だから、連絡を受けて知っていた。
“余計な事を、”と、舌打ちしたい気持ちであった。
今まで、南昭との戦では、負け戦を勝ち戦と、楊国忠が、嘘ばっかり、玄宗に報告していたのを李林甫は把握していた。
だから、玄宗に関心をもたせ、嘘に気付かせようとしたのである。
楊国忠は、仕方なく蜀に行こうとして、泣きながら、暇乞いをした。
私は、必ず李林甫に害されます。
と、玄宗に訴えた。
楊国忠の傍らで、楊貴妃も、
陛下、兄をお助け下さい。
と、涙を流した。
玄宗は、
そなたが、蜀に着いたら、わずかな間だけれども、軍営の住まいにいなさい。
外に出なければ安心だろう。
軍の人の入り混じる中が、狙われやすい、と考えての、楊国忠を安心させるための発言であった。
負傷の危機を心配したのである。
まさか、嘘がバレて信用を無くす危機を憂いているとは、まるで思っていない。
朕が指折り数えて、すぐに使いを送り、そなたを助けよう。
帰ってきたら、宰相にしよう。
と、約束した。
“宰相になれる!”
後で、楊貴妃に抱きつかんばかりに、楊国忠はお礼を言ったことであろう。
この時、李林甫は、病におかされていた。
阿布思の件での仕返し、楊国忠対策は、したくても何も出来なかったのである。
折角、蜀におびき出したのに。
楊国忠の留守の朝廷で、処分された筈の負け戦の報告書が、玄宗の眼の前に、偶然を装い現れるはずであった。
いもずる式に。
だのに・・・
悶えながら、思い煩っていたのである。
占い師が
「皇帝陛下を一目見たなら、少しは良くなります。」と言った。
その事を伝え聞いた玄宗は、「見舞いたい。」と言った。
だが、周囲の者が強く反対した。
病気が移る。
陛下になにかがあったら、玉環が可哀想、等
特に、楊国忠から、常に李林甫の恐ろしさを聞かされいている、かく国夫人は、どうせなら早く死ぬ方が楊国忠が悦ぶとばかりに、(陛下が見舞いなどしないように)
「姉上の言う事は、聞くものよ。」と、笑いを誘い、その考えにとどめを刺した。
玄宗は、かく国夫人を“三姨”と、呼んでいた。
姉と、呼んでいるのは確かだし、事実、妻、玉環の姉である。
だが、自分より、はるかに若いかく国夫人に、自ら、姉を名乗られた時は、驚いた。
だが、結局、玄宗は、苦笑いをするしかない。
同腹では、妹しかいない。
姉を名乗り、こんな口を利く者なぞ、かつていたことがない。
初めての体験である。
玄宗は、この姉妹の奔放さが、好きだったのである。
玄宗は、李林甫に庭に出るように命じた。
李林甫の屋敷は、華清宮の側の昭応の地区にあり、玄宗に従って来たものの、屋敷で療養していたのである。
玄宗は、華清宮の隆聖閣に登り、遥かに眺め、その頃流行っていた紅い手巾を振った。
李林甫は、起き上がれず、拜することが出来なかった。
代わりの人が拝礼をした。
楊国忠が蜀に着いてすぐに、玄宗は、使いを遣わし、召し還した。
楊国忠は、昭応を通ったので、李林甫に謁見して、寝台の傍で拝謁した。
後で、素通りしたのがわかると、マズイと思ったのである。
李林甫は、涙を流して言った。
李林甫は、死にます。
楊公は、必ず宰相になるでしょう。
後の事は、煩わせると思いますが、楊公、宜しくお願いします!
楊国忠は、とんでもございません。と、言った。
汗が出て、顔を覆った。
そんな、私なぞとても・・
しどろもどろだった。
汗が後から、後から、出た。
楊国忠は、李林甫が恐ろしかったのである。
死に逝く人なのにである。
李林甫の事だから、阿布思の事で恨んでいて、病気を装い、自分を嵌めるのでないかと、楊国忠は疑ったのかもしれない。
二人は、似た者同士だから、相手の気持ちを読み過ぎるのである。
十一月二十四日、
おおよそ十九年間、唐を裏で支配した李林甫が、死んだ。
玄宗は、人生の後期、太平の世が長く続いていることを恃みとし、天下が再び憂うことがないとして、宮中奥深くに籠り、もっぱら音楽と楊貴妃を楽しみとした。
そして、政事はほとんど李林甫に委せていた。
李林甫は、なに事もへつらって、玄宗の意向に沿ったので、玄宗の恩寵を確かなものとした。
言葉の道を閉ざし(諫言を禁止して、諫言した者を罰したり)、玄宗の聡明さに覆いをし、現実を隠した。
そして、邪な心で、自分の回りを固めていった。
賢明であったり、能力が有る者に嫉妬し、自分より優れている者を押し退け、自分のその立派な地位を守り続けた。
たびたび、大きな疑獄事件を起こし、得がたい優れた重臣たちを追いやり、滅ぼし、自分の勢力を伸ばしていった。
皇太子やその配下たちも、怖れて立ちすくんでいた。
その位にあって、おおよそ十九年、天下に乱れを養い育んだ。
しかし、玄宗は、夢の中にいて、眼が覚めなかった。