嵌められた李林甫
初め、李林甫は、陳希烈が扱い易いと思って、左相に引っ張ってきた。
政事は、常に、李林甫の云いなりであった。
前任者の李適之を見ていたから、陳希烈は、恐ろしくて、云いなりになるしかなかったのである。
しかし、けい縡の事件があって、“自分の命が狙われた”と、知ってから、考えが変わったのである。
李林甫が、護衛をたくさん連れて移動するのを見ても、自業自得だと思っていた。
だが、他人から見れば、自分も、“同じ穴の狢”だと、思われていたのだとわかったのである。
云いたいことも云わずに、遠慮して生きてきた。
しかし、李林甫に嵌められるとしても、どうせ他人から命を狙われるのなら、“好きに生きてやろう”と、思ったのである。
“これからは、云いたいことは云う”
陳希烈の決意は、雰囲気を変えた。
陳希烈の様子に、変化を見た李林甫は、畏れを抱いた。
李献忠の謀叛があって、李林甫は、
遙領の朔方節度使を解任していただきたい。
と、請うた。
そして後任に、河西節度使の安思順を推薦した。
しばらくして、安思順が、朔方節度使となった。
李林甫が、朔方節度使をやめたのは、嫌な予感がしたからである。
李献忠(阿布思)は、謀叛を起こした。
阿布思は、朔方節度副使をしていたのである。
いくら、遙領とはいえ、直属の部下と言うことになる。
かつて、王忠嗣と、たまに会うであろう同じ地区の部下に、会話の中で、王忠嗣が“皇太子に忠誠を尽くしたい。”と、云っていたと、讒言させた。
同じ形で、自分も、謀叛を起こした直属の部下と繋げられて、“李林甫も謀叛人の仲間だ”と、云われるのを畏れたのである。
李林甫が見るところ、今の李林甫は組みしやすい標的であった。
“蛇の道は蛇” なのである。
五月三日、
玄宗の長男である、慶王、そうが亡くなった。
玄宗は、予定通り“靖徳太子”と諡を贈った。
玄宗は、この日は、いつもと違っていた。
玄宗なりに、喪に服したのである。
玄宗は、哭いた。
初めての息子であった。
男子を持つ喜びを教えてくれた、息子である。
幸せ薄かった、本当は、皇太子にしたかった息子の顔を、(三十年以上直視できなかった)息子の顔を玄宗は見たのである。
時が、少しは、傷を目立たなくさせてはいたが、やはり、獣の爪あとは深く醜かった。
そっと触った。
まさか、自分より、早く逝くとは、思ってもいなかった。
医者の予想通り、子には恵まれなかった。
だから、廃された皇太子、瑛の子を跡継ぎとした。
自分の子が欲しかっただろう、と思った。
部屋には、高力士しかいない。
こんな、弱々しい姿は、誰にも見せられない。
今まで、行き来のなかった息子の手を握り、話しかけた。
高力士に声をかけられるまで、動かなかったので、起き上がる時、体が痺れていた。
弟の忠王がそなたを、皇帝にするから、待っていなさい。
最後に、声をかけた。
京兆尹、楊国忠に御史大夫、京畿・関内采報使等の官職が与えられ、王きょうが統べていたほとんどの官職が、楊国忠の物となった。
最初、李林甫は、楊国忠はたいして能力はないと、見てとった。
李林甫にとって、“登用しても、害のない人”と、見たわけだ。
私に、“悪影響を及ぼさない”と。
おまけに、貴妃の一族なので、良い待遇を与えた。
だが、楊国忠は、王きょうと共に “御史中丞”であった時に、“御史大夫”の地位に、李林甫が王きょうを推薦したので、気に食わなかった。
だから、一矢報いようと、けい縡の事件を克明に調べた。
どういう風に、うまく結びつけられるか、いろいろ考えた。
後で、ボロがでないように。
そして、王きょう、王かん兄弟と、阿布思が、李林甫と個人的に付き合いがあった、すなわち、“結託していた”として、表沙汰にしたのである。
阿布思の謀叛と、けい縡謀叛の事件、両方に李林甫が関わっているとしたのである。
誣告するのは、何年間も見ていたし、手伝いもさせられていたので、お手のものであった。
李林甫という、師匠のもとでである。
師匠、李林甫の予感は、当ったのである。
陳希烈に声をかけると、二つ返事で引き受けた。
李林甫に、足掛け七年間、虐げられた陳希烈は喜んで証言した。
それと、哥舒翰が証人となった。
哥舒翰は、王忠嗣を陥れたのが、李林甫だと知っていた。
告発した魏林を、問い詰めたのである。
李林甫に、指示された。と。
哥舒翰なりの仕返しであった。
哥舒翰は、証人になる条件として、どうやって嵌めるのかを聞いた。
大丈夫か、知っておきたいと、言って。
李林甫のやり方を、楊国忠を通じて、哥舒翰は学んだのである。
誰も、罪悪感は持たなかった。
それ以来、玄宗は、李林甫のことを(罪には問わなかったが)、疎んじるようになった。
楊国忠の凄さが、天下に鳴り響いた。
あの李林甫を訴えた。
皆に恨まれ、常に刺客に狙われている、あの李林甫を。
李林甫に強敵が現れたのであった。




