王家赤族
戸部侍郎、御史大夫、京兆尹である王きょうは、権勢と恩寵が日増しに盛んになり、二十余りの官職を帯びていた。
屋敷の側に事務所を建てて、書類など、いっぱい山積みにして、役人が署名一つを貰うため、毎日待っていた。
宮中からは、玄宗の内密の使者が賜り物を届けにくるのが、絶えることが無かった。
李林甫でさえ、畏れて、王きょうを避けていた。
王きょうへの恩寵は、進奉によるところが大きい。
李林甫には、巨額の進奉など、捻出する能力は無く、もし王きょうを陥れても、王きょうに代わる者が現れるだけであった。
李林甫の息子李岫は将作監で、王きょうの息子王準は衛尉少卿で、共に朝廷に仕えていた。
李岫の方が王準より、少しだけ品階が上だった。
けれども、王準は李岫を侮り、いつも李岫は下手に出ていた。
父親、李林甫には、腹立たしことではあるが、王きょうが(李林甫に恭しく礼を尽くすのを見て、安祿山が驚いたように)自分に対して、立場をわきまえているので、玄宗の恩寵を忌々しく思いながらも、なにもしないでいた。
王準は、附馬都尉である王ようのかつての上司であった。
王準を屋敷に迎えるにあたって、王ようは、はるか前から地に伏して、お辞儀をして待っていた。
やって来た王準は、馬上から、伏している王ようの、冠を止めてある玉の簪を狙って、弾き玉を当てて簪を折った。
そして、自分の腕前を自慢して、笑った。
腕に覚えがあったからの行為ではあるが、危険なことである。
屋敷では、宴が用意され、玄宗の第一皇女である、永穆公主が王準のために、料理を披露した。
王ようの王準に対する気遣いがわかる。
それと、王ようと永穆公主の仲の良さも。
王準は、永穆公主に対して、もっと遠慮すべきである。
皆、王準の父、王きょうに対しての配慮なのである。
王きょうの弟、戸部郎中の王かんは凶悪で無軌道な男だった。
巫術士、任海川を呼んで、
「私の人相は、王者の相かな?」と、聞いた。
返事に困る、不敬な質問である。
任海川は、畏れて、姿を隠した。
傍で聞いていた王きょうは、この話が露見することを恐れた。
そこで、長安県の尉、賈季隣に探させ捕らえさせ、他の事にかこつけて、杖死させた。
その話を王家の司馬である韋会が聞き、兄である王ように庭で話した。
王きょうに告げる者がいた。
王きょうは、また賈季隣を使って韋会を捕らえさせ、獄に入れ、その夜の内に、絞め殺させた。
次の日、遺体が帰ってきた。
王ようと韋会は、兄弟であった。
母親、安定公主は、中宗の三女であった。
最初、王同皎に嫁いで、王ようを産んだ。
王同皎が死に、次に、韋濯に嫁ぎ、韋会を産んだ。
姓は違っても、二人は母を同じくする、兄弟であった。
だが、王ようは、弟が殺された事をあえて言わなかった。
弟は、話しただけで殺された。
自分も口にすれば、禍が降りかかると思えたのである。
王準より、恐ろしい、王きょうであった。
王きょうは、王かんの尻拭いを、文句を言うことなく、当たり前のようにしていった。
王きょうは、京兆尹であった。
長安城の正門、明徳門から宮城の正門、朱雀門に至る、朱雀門街の東側万年県、西側長安県を合わせた京兆府の尹、長官であった。
だから、長安県の尉など、アゴで使える立場だったのである。
王かんは、けい縡と仲が良かった。
だから、王きょうは、王かんを通じて知り合い、けい縡と囲碁を楽しむ仲であった。
王きょうは、けい縡と交流があったのである。
けい縡は、龍武万騎の兵士たちと謀って、龍武将軍を殺そうてしていた。
それでもって、兵たちと反乱を起こし、李林甫、陳希烈、楊国忠を殺そうとしたのである。
二日前、密告する者があった。
四月九日、玄宗は、朝廷に出御した。
王きょうにその書状を渡して、捕らえるように告げた。
王きょうは、書状に目を通した途端、王かんがけい縡のところに居ると直感した。
だから、王かんが、けい縡と一緒に捕らえられないように、すぐに、使いの者に呼びにやらせた。
日が暮れかけた。
夜行の禁で、暗くなると鐘を合図に坊は閉じられ、通りに人は居無くなる。
長安県の尉、賈季隣と、万年県の尉、韋黄裳が兵と共に遣わされた。
けい縡の住居は、長安県の金城坊にあった。
賈季隣たちは、化度寺門の処で王かんと出会った。
王かんは、王きょうの文を読み、けい縡の処から、帰る途中であったのである。
自ら、けい縡のことを話題にした。
私は、けい縡とは、昔からの、知り合いだ。
けい縡は、今、反逆した。
恐らく、慌てて、ウソっぱちを言って惑わすだろう。
その言葉を信じないように。
けい縡の仲間でないと、予防線を張ったのである。
賈季隣たちは、けい縡の家の門についた。
けい縡が頭となって、その一味数十人が弓や刀を持って、闘いながら飛び出してきた。
王きょうと楊国忠は兵を引き連れ、賈季隣たちに続いて着いた。
けい縡ー味の者が
王大夫の部下を傷付けるな。
と、言った。
王きょうは、自分が一味の仲間に思えるその言葉に、マズイと思った。
楊国忠の従者も、それを聞き怪しいと思い、声をひそめて
賊には、合い言葉があります。
狙い打ちされるといけません。
後ろに居て、戦わないでください。
と、言った。
けい縡は、闘いながら走った。
遂に、皇城の西南隅に追いやられた。
そこに、側使えの高力士が、(驃騎大将軍でもあるので)飛龍禁軍四百騎を引き連れやって来た。
けい縡を斬り殺し、その一味を捕らえた。
皆、生け捕りにされた。
反逆一味の捕り物があった時、楊国忠は、王きょうと一味に結託があったと考えた。
朝廷で一同が会した時、上司にあたる王きょうの事を、あからさまに悪く言えないので、書状にしたため、玄宗に上奏したのである。
それには、賊が“大夫の部下を傷付けるな。”と言った、から始まる、疑惑が述べられていた。
そして、“王きょうは必ず反逆の謀に参加しています。”と結ばれていた。
玄宗は、王きょうを信任していたし、厚く待遇していたので信じなかった。
李林甫も、また、王きょうの事を弁護した。
その場にいた人々の中で、はるかに後ろに立つ、身分の低い裴冕も発言し、王きょうの弁護をした。
玄宗は、元々、王かんの罪を問わないでおこうとしていたが、王きょうに形だけでも、その罪を請うように上奏させたいと思った。
玄宗は、楊国忠に秘かに命じて、王きょうに“王かんの罪を問わぬ。”と、仄めかすように指示した。
たが、楊国忠は、“王かんの罪は問わぬ。”との玄宗の言葉を、王きょうに伝えなかった。
王きょうは玄宗の心を知らぬまま、
弟のことを上奏するのは、忍びない。
と、言った。
玄宗は、罪を問わないとの配慮に対して、断るなんてと、腹を立てた。
王きょうは、自分は側室の子で、王かんは、父親の大切にしていた子であり、幼い頃より“王かんを頼む。”と、言われていたので、弟を裏切るようなことはできなかったのである。
王きょうの祖父、方翼は夏州都督をし、時の名将といわれた人物であった。
王きょうの父親・王しんは、三人兄弟の真ん中、次男であった。
三人共に、恩蔭の制で苦労することなく朝廷に職を得た。
が、長男、次男共に、中書舎人止まりで、あまり出世はしなかった。
三男、王しゅんは兵部侍郎、秘書監となり、兄弟の出世頭であった。
王しんは、兄ではあったが、兄弟なのだから引き立ててくれたら、と思ったものであった。
だが、弟が恩に思うようなことは、何もしていなかった。
仕方がないと、思った。
教訓にしなければ。
王しんは、子供たちを勉学の師に付かせていた。
ある時、師匠に尋ねた。
優れているのは、どの子ですか?
その時、“王きょう”と返答があった。
王きょうは、側室の子だ。
正室は喜ばない。
だが、説明して、説得した。
私と弟のような関係になる。
羨んで眺めるだけだ。
庶子を大事にして、嫡子を引き立ててもらおう。
他の女子が産んだ子だ。
嫌なのはわかるが、我子のためだ。
食事も、服装も平等に。
小さい子だと思っても、わかるものだ。
そうすれば、そなたも年をとったら、大切にして貰える。
なんとか夫人になれるぞ。
正妻を説き伏せ、それから、今にいたる。
父親は、兄弟の中では、早くに亡くなった。
だが、死が近づいた時、正妻に言った。
私の言った通りだっただろう。
最後の仕上げだ。
相続の時は、決まりでもあるが、平等に。
庶子だからと、面積は同じでも、条件の悪い土地(水はけが悪かったり、変な形だったりする物)を渡すことのないように。
あの子が、将来、そなたや嫡子たちにもたらす物は、比べ物にならない。
良い所を分けてやれ。
エビでタイを釣るのだ。
陛下は、あの子の才を認めたようだな。
監察御史から、戸部郎中になった。
抜擢されたのだよ。
あの子は、自分は庶子だからと、よく頑張った。
今から、我が家には、佳き事が興るだろう。
将来の心配はない。
言わなければならない事は言った。
ちゃんと守れよ。
王きょうの知らない話である。
父親の予言通り、王きょうは嫡母に孝行を尽くした。
だが、父親があんなに頼んだ弟が、すべてをぶち壊した。
左相の陳希烈が、“大逆した者は誅殺して当たり前”と頑なに主張した。
反逆者が、自分、陳希烈を殺しの対象としていたのを知って、腹を立てたのだ。
陳希烈に“楊国忠と、共に取り調べるよう”に、命が下された。
王きょうは言われたように、それなりの書状をしたためた。
出したが、受け付けてもらえなかった。
李林甫が言った。
遅かったのです。
楊国忠には“京兆尹を兼ねるように、”との沙汰があった。
王きょうの官職が一つ、楊国忠に渡ったのだ。
それから、陳希烈と楊国忠の取り調べがはじまった。
ここで、任海川と韋会の死、死にいたる経緯が暴かれた。
拷問がなされた。
王きょうは自死を賜った。
楊国忠は、次に王かんに問うた。
大夫は、反逆を知らなかったのか?
楊国忠は、王きょうの反逆の罪を弟に認めさそうとしたのだ。
王かんは、拷問のせいで息があがり、すぐには、返事ができなかった。
侍御史の裴冕は楊国忠の思惑を恐れて、王かんを引っ張って叱った。
王大夫のおかげで、そなたは五品になれたのだ。
そなたは、臣下として不忠である。
弟として善いことではない。
大夫は、誠に反逆には関わってないのだな?
と、聞いた。
邪魔された楊国忠は、愕然とした。
部下に邪魔されたのだ。
ふたたび、訊ねた。
やつらと仲間だろ。
隠してないな。
やつらと仲間じゃない。
嘘じゃないな。
王かんは言った。
兄は、仲間じゃない。
再び、拷問がなされた。
だが、王かんの答えは変わらなかった。
裴冕が、王かんに兄、王きょうの恩を説いたので、王かんは冷静さを保てたのだ。
兄を裏切らず、拷問に耐えたのだ。
王かんには、杖死と命が下った。
王きょうの子、準としょうは、嶺南に流され、その地で殺された。
罪人の財産は没収されるので、役人が品物一つ一つ書き付ける書類をつくるために屋敷を訪れた。
けれども、財産が多くて、数日かけても書類はできなかった。
屋敷は、一日で廻り切れない広さだったのである。
屋敷では、賓客として世話になっていた者や部下が門から覗いたりする事もなかった。
関わりを怖れたのである。
ただ一人、さい訪判官の裴冕(王かんの尋問の時、楊国忠の誘導尋問を遮った男)だけが楊国忠の許しを得て、廊下に放置されていた屍を持ち帰り、葬った。
王きょうは京畿さい訪史の職も兼ねていて、裴冕が采訪判官であった時、よく世話をしたので、裴冕は恩に感じていた。
だから、遺体を葬ったのである。
裴冕は、恩を返したのである。
遺体を葬った事によって、義理堅い男として、裴冕の名は知れ渡った。
子供たちは、ことごとく誅殺され、関わりのある者は遠くに流罪となった。
楊慎矜の家が潰れて凡そ五年、王きょうの家も、赤族(一族の全員を皆殺しにすること)となった。