元宵節での争い
発端は、古い話ではない。
南詔の国では、その地の都督に謁見する時は、いつも妻や子どもを同伴するのが、常であった。
かつて、雲南で、雲南太守・張虔陀が、謁見する者を皆自分の物とした。
また、多くの者を召し出した。
そのやり方は、唐の内地では考えられない、非難されるべき統治者の姿であった。
蛮族の地であるから、見下したのである。
南詔王・閤羅鳳は、理不尽なやり方に応じなかった。
だから、張虔陀は、人を遣わして辱しめ罵った。
そして、しばしば自分に都合の良いように繕った閤羅鳳の罪(反抗的など)を、密かに上奏した。
閤羅鳳は激しく怒り、この年、兵を出し、雲南を攻めおとし、張虔陀を殺した。
そして、覊縻の州である夷州を得た。
閤羅鳳は、領地が欲しくて始めた戦ではなかった。
ただ、家族を守りたかったのである。
南詔は、あの鮮于仲通が節度使を勤める、剣南節度使の管轄の地であった。
天宝十載(751年)
一月
玄宗は、李林甫を、遙領の朔方節度使に任じた。
一月十六日、
楊氏五家(楊銛、楊き、韓国夫人、かく国夫人、秦国夫人)が元宵節を楽しもうと、夜、そろって出かけた。
広寧公主(玄宗の娘)は馬で出かけていたが、西市の門で、楊氏の馬車と先を争った。
楊氏の御者はひかず、鞭を振るった。
その鞭が公主の衣に当たり、公主は、馬から落ちた。
ふ馬(夫)である程昌裔は、馬を下りて公主を庇った。
だから程昌裔は、何度も鞭を受けた。
元宵節での、多くの人出の中での出来事である。
周りの目があった。
その目が、気になった。
双方とも、面子がある。
楊氏は、一族皆で来て、公主とはいえ、若い一人の女子に頭は下げられない。
まして、楊貴妃の面子もある。
それだけではない。
三人共に、“夫人”の称号を持っている。
玄宗の妹たちも、遠慮して席を譲る相手なのである。
普通の人物ではないのである。
一方、公主の方としては、高い身分に誇りがあるので、これまた、退かない。
だのに、御者風情に鞭打たれたのだ。
当然、この仕打ちに代価を支払わそうと、父である玄宗に泣いて訴えた。
玄宗は、御者である楊氏の奴隷を杖死させた。
だが、次の日、ふ馬、昌程裔は罷免された。
昌程裔は、朝廷で玄宗と顔を合わすこともなくなった。
娘と寵愛する者の一族との争い。
泣いて訴えた娘。
対して、三人の姉たちの激しい口調。
玄宗に対して、感情剥き出しで、食ってかかる者なぞいない。
この双方に対する処分は、玄宗が、三姉妹のカシマシサに、圧倒された結果であろう。
楊氏は、「年長者に対する敬意が足りない。」等と、云ったのであろう。
「親の顔が見たい。」とまでは、云わなかっただろうが。
いつもの事だが、皇帝に対する姉たちの態度を考えると、申し訳なさに、楊貴妃は身が縮む。
引かなかった、どちらも悪い。
結局、喧嘩両成敗としたのだ。
二人だけになった時、楊貴妃は、手を合わせ、玄宗を拝んだ。
仏様のような御方です。
玄宗は、年甲斐もなく、はにかんだ。
何も、云えなかった。
玄宗は、安祿山の邸を親仁坊に建てるように命じた。
親仁坊の北は宣陽坊で、楊一族が住んでいる。
その北、平康坊には、李林甫の邸がある。
平康坊は、東、春明門から、西、金光門に続く大通りに面している。
南北であれ、東西であれ、中央に近い程、格が高いのである。
その李林甫が住む坊と、同じ筋の坊である。
今をトキメク人たちの近くに坊を賜ったのである。
邸は、贅沢好きの玄宗が指示して建てただけに、細やかな配慮がされていた。
お金には、いとめを付けず、内装にまで口うるさく指図して
あいつは、目がでかいから隅々まで気を使うように。
朕が嗤われんようにしなさい。
と、言う位、気配りした。
垂れ幕、寝台の幄はゆとりたっぷりで、台所のザルや籠などは、銀の針金で編んでいた。
宮中の物も、及ばない程であった。
安祿山は、その新居に入ると、宴会をしたいので、宰相に来て貰いたいと、玄宗直々の命令書(墨勅)をお願いした。
玄宗直々の書状の方が、玄宗との親しさが、他人に、より強調出来るからである。
この日、玄宗は、謹政楼の下で撃毬の試合をするつもりでいたが取り止め、宰相に安祿山の邸に出かけるように、命じた。
毎日のように楊一族の者を遣わせ、景勝地を選んで宴会させたりした。
そして、梨園の者を遣わせ、教坊の音楽を提供した。
玄宗は、なにかを食べて美味しかったり、禁苑で珍しい鳥を狩猟すると、すぐに賜るために馬を走らせた。
ひっきり無しで、途絶えることがなかった。
いつも、幽州から安祿山が贈り物を届けてくれるので、お返しのつもりであった。
安祿山は、玄宗に、いつも北の馨りを届けてくれるのである。
玄宗は、安祿山の風貌も好きであった。
整った顔立ちは、宮中に溢れていた。
だが、見るからに愚直そうな、髭ずらの安祿山のような顔は、宮中では、お目にかからない。
何でも委せられる気がした。
玄宗は、安祿山を信じきっていた。
玄宗は、安祿山が好きだったのである。