身体髪膚、受于父母
十月四日、
玄宗は華清宮に出かけた。
華清宮は、手を入れ広くした時、朝賀の式も行えるようにしていた。
だから、そのつもりで今回は、曲芸などをする動物も、順次連れて来るようにしていた。
朝賀に来る諸国の王たちも、泊まって、湯に入れるように手配も済ませていた。
華清宮も、長安の城のように設備が整えられていたのだ。
唐は、栄えているのだ。
十一月四日、
吐火羅の失里けつ伽羅が使いをよこして、
けい師王が、小勃律国の食糧を運ぶ道で邪魔をして、鎮軍が困っているそうです。
けい師王は、吐蕃と親しくしているので、強気なのです。
凶悪な者はやっつけるべきだと、私は思います。
出来るなら、安西節度使の兵士を遣わしていただきたいのですが。
正月までに小勃律国へ、六月には大勃律国へ、お願いしたいのです。
と、上奏した。
玄宗は、これを許した。
冊封国に対しては、手厚くしなければ。
封じた国の意地もある。
でないと、誰も主として認めない。
困った時の、封主国なのである。
天宝九載(750年)正月、
玄宗は、華清宮で、初めて朝賀の式を行った。
長安で行われるのと、変わらない式典であった。
一月十日、
玄宗は、長安に帰った。
二月、
楊貴妃は、また玄宗の意向に逆らい、家に帰された。
戸部郎中の吉温は、楊しょうに頼まれ、玄宗を説得した。
女子は男子とちがい見識、思慮、ともに遠く及ばないものです。
貴妃様は、陛下の御心に逆らいました。
陛下は、どうして宮中の女官の一人を惜しまれるのですか?
死なせてあげれば、いいではないですか?
追い帰して、宮中の外の邸で恥をかかせるなんて、ひどくはありませんか?
玄宗は、また後悔した。
食事を賜り、使いの者に持たせた。
貴妃は、使いの者に、涙を流して言った。
私の罪は、死に値します。
陛下は、私を殺さずに家に帰されました。
今から、長く宮殿を離れるようにします。
金、玉、珍しい宝物、すべて陛下から賜わりました。
私から、陛下に差し上げる物はなにもありません。
ただ、髪は、父母から貰ったものです。
真心をもって献上します。
と、言って、髪を一房切って、使いの者に渡した。
使いの者は、驚愕した。
“孝経”に、
身体髪膚、これを父母に受く。
敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。
(我々のからだは全部、父母からいただいたものであるから、絶対に損なわないようにするのが孝行の第一歩である。)
と、ある。
親に貰った体を傷つけるなんて!
髪は産まれた時から、皆、切ったりなぞしない。
髪を見て、あわてた玄宗は、楊貴妃を召し帰すよう、高力士を遣わした。
楊貴妃は親不孝をしてまで、朕に真心を見せてくれた。
楊貴妃の行動は褒められたことではないが、玄宗は嬉しかった。
今までこんな形で、朕に真心を伝えた女子はいただろうか?
こんな女子は初めてだった。
皇帝という立場が、どんな女子との関係も可能にしている。
心のどこかで、そんな女子を軽く見ていた。
だが、玉環は、他の女子とは違う。
大切にしなければ。
尊重しなければ。
このケンカ以降、楊貴妃に対する玄宗の寵愛は、ますます深くなった。
安西節度使の高仙芝は、玄宗の命により、けい師を破り、その王である勃特没を捕虜にした。
三月、
玄宗の意向により、勃特没の兄である素迦をけい師王に封じた。
いつも、玄宗の期待に応える高仙芝の働きに、褒美を与えなければと、玄宗は考えていた。
四月、
御史大夫、宋渾が巨万の富を隠していたと、潮陽に流刑になった。
蕭けつと同じ罪で、連座してとの事であった。
二人とも、李林甫の配下の者であった。
吉温は、もともとは兵部の獄卒であり、李林甫に目をかけられ、出世した。
だが、楊貴妃の宿下がりの折り、楊しょうと会う事が多くなり、懇意になった。
兵部侍郎、御史中丞の楊しょうは、吉温にお礼と称し、いろいろと恩恵を施した。
そして、
自分の下で働かないか?
と、声をかけた。
頭がまわるので、欲しくなったのである。
“楊貴妃の身内の楊しょうの方が、若いし、前途が明るい”と吉温は考えた。
吉温は、ついに李林甫から去った。
そして、楊しょうのために、李林甫の政事のやり方を紙にしたためた。
蕭けつと宋渾は、李林甫が手厚く遇した者であった。
だが、李林甫の悪事の手先になった事で、結局、罪を得た。
楊しょうは、吉温のしたためた書状を上奏した。
玄宗の李林甫に対する信頼は、損われた。
李林甫は、蕭けつと宋渾の二人を、もう助ける事が出来なかった。