表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蓮華 代宗伝奇  作者: 大畑柚僖
129/347

楊家の隆盛

蓮は、部屋の外でウロウロしていた。

二人目の子供ですから、最初の子のようには待たなくていいと思いますよ。

言われていたので、待っているのである。

側には、蓮が産まれた時に玄宗から贈られたたらいが置かれていた。

ただし、布で包み、なんだか分からないようにしていた。

玄宗に、

他人に見せないように。

と、言われていたからである。

見られて、不都合な物だからである。

見たら、玄宗の子供たちは、穏やかでいられないだろう。

金のたらいなのである。

蓮の将来を考えて、相応しい物として、選んだ物であった。

他の誰にも、贈ったことのない物だったからである。

今日、産まれてくる子は、皇帝の子供ではない。

だから、産まれたての子を見ることができる。

皇帝は、三日後に見ることに、なっている。

決まりなのだ。

皇帝は、三日後、俶という名前と一緒に、金の盥をもってきたのだ。

蓮の世話をしていた者は、蓮があまりに痩せっぽっちで小さいので、玄宗が喜ばないと思って、同じ日に産まれたまるまるとした赤子を連れて来たそうだ。

玄宗は

朕の子を連れて来るように。

と、怒ったという。

連れてこられた蓮を抱き、明るい処に連れていき、まじまじと顔を見て、満足したそうだ。

母は十三才で我を産んだ。

母親自身が痩せっぽっちで、子供のような体つきだったそうである。

父上も、後でよく産まれたと、思ったそうだ。

この盥は、かつが産まれた時も、使った。

だが、男の子なら、使うのは考えてしまう。

跡目を争うようになるのは、困る。

珠珠と相談しなければ、

珠珠とそっくりな女の子なら、喜んで使おう。

七月生まれも、良かった。

生まれ月で、子供に嫌な思いをさせたくない。


オギャア~


おめでとうございます。

殿下、女の子ですよ。

珠珠、ありがとう。

蓮は、嬉しい。


八月五日、

玄宗の誕生日“千秋節”を、“天長節”と改めた。

度支郎中、侍御史楊しょうは、玄宗の意向を汲んで、厳しく税を取りたてるため、走り廻っていた。

だから、その年の内に十五の官職を得た。

御史大夫、判度支、権知太府卿事、蜀郡長史、剣南節度・支度、山南西道采報処置使、両京太府出納監倉、などである。

最近では、給事中、御史中丞などに任命され、玄宗の恩寵は、ますます盛んになっていた。

十月、玄宗は華清宮に行幸した。

十一月、楊貴妃の姉たち、一番上の崔氏を韓国夫人、二番目の裴氏をかく国夫人、一番下の柳氏を秦国夫人と、身分が与えられた。

三人とも、才色兼備で、玄宗は、韓国夫人を大姨、かく国夫人を三姨、秦国夫人を八姨と、排行で呼んだ。(長女は、一般に大を付けて呼ばれる。)

宮廷の出入りは自由だし、皇帝から恩恵を受け、天下を動かす程の大きな力を持った。

四方からの付け届けは楊家の門に集まり、朝から夕方まで、市のように人でごった返した。

十六王宅の王たちも、百孫院の年頃の皇子も、礼会院の公主も郡主も県主も、千緡のお金を韓国夫人か、號国夫人に払えば、玄宗に頼んでくれるので、婚姻に関して思うようにならないことはなかった。

玄宗からの賜り物、四方から貢がれる品、五家は同様に扱われた。

五家は、屋敷の豪華、華麗さを競った。

莫大な費用が支払われたが、出来てみて、他の家の方が勝っていると、壊して、改めて造るのである。

頼りになる妹婿がいるから、出来ることである。

かく国夫人が一番、豪勢だった。

ある朝、職人をつれて韋嗣立の家に入って行って、その住んでいる家を壊して、自分の新しい家を造った。

そして、韋氏には、十畝ほどの土地を渡した。

我が世の春を謳歌しているのは、楊貴妃よりも、身内のようである。

楊貴妃は、広いとはいえ、宮殿をでることもなく、限られた人たちとの日常である。

安祿山が好ましいはずである。

儒教に縛られた感覚の中で、一番下の妹は、目上の姉たちに従わなければならない。

口応えは、儒教の教えに反するのである。

姉たちは、

ありがとう。と

言えば、それで、ご破算なのである。

十二月、

哥舒翰は青海の上に神威軍を置いた。

吐蕃がすぐにやって来た。

だが、哥舒翰は撃破した。

青海は、唐と吐蕃の境界に近い場所にある、吐蕃の湖である。

海と言う名前からも解るように、大きな湖なのである。

唐の人なら、本当の海を知っているから、こんな名前は付けなかっただろう。

この青海の東から少し南よりの処に、あの石堡城があるのである。

青海に居るということは、すでに、吐蕃を刺激しているのである。

ここで過ごすことは、当然、石堡城の攻略を考えてのことなのである。

そして、哥舒翰は、青海の中にある島、龍駒島に城を築いた。

長安よりも北に位置する場所である。

早くから寒くなり、青海の水が凍る。

だから、牝馬をその上で遊ばせる。

次の年には、駒が生まれるという。

水の上で孕んだので、龍種と名付けた。

ゆえに、島の名は龍駒島なのだ。

子馬も、氷の上で育ったなら、寒さに強く、凍った道なんか平気で駆けるだろう。

吐蕃に対する、作戦の一つである。

頭を使うことは、王忠嗣に学んだ。

王忠嗣は、節度使になると、自由になるお金ができたので、牙市で胡族が売りに来た馬を、言い値ですべて買った。

それを聞いた他の胡族も、喜んで馬を売りに来た。

それも全部買った。

唐は、買った馬の数だけ騎兵が多くなり、戦が強くなった。

胡族には、馬が少なくなった。

儲かると思い、予備の馬まで売ったのである。

戦になり、馬が負傷したりすると、蛮族の兵は闘いに参加できなかった。

唐は、もっと強くなった。

二つの節度使を任せられていたので、買った馬を振り分けた

節度使の兵の数と、馬の数は、大きくかけ離れている。

高仙芝の安西節度使は、兵二万四千人、馬二千七百頭、という建て前だ。

これで、一万人の兵士が全員馬に乗って遠征したのだ。

二千七百頭の馬、すべてを使っても足りない。

それに、残った人たちだって、馬が要るのだ。

表にでない馬が、数多く存在するということだ。

高仙芝が小勃律国へ行った時、兵が乗っていた馬は、ほとんど私馬であったということだ。

だだ私馬と言っても、兵には自分で馬の用意はできない。

高くて、とても手が出ないのだ。

長安での庶民の乗り物は、買えても、馬ではなくロバなのだ。

上の者の気配り、差配が、やはり必要なのだ。

王忠嗣は、自分の管轄の場所をきちんと取り締まり、勝手なことはさせなかった。

弓一つとっても、名前を書かせ、自分で管理させ、常に良い状態にさせていた。

他の物も、同じであった。

そして、節度使を去る時は、支給した全ての物を返却させた。

すべてを掌握していた。

吐蕃とは、青海や積石で戦い、一度も負けなかった。

だから、天下に重きをなした。

李林甫が怖れた訳である。

又、吐谷渾の墨離軍と戦った時は、捕虜を皆、帰した。

哥舒翰は、王忠嗣を見て、いろいろ学んだ。

王忠嗣より年はくっていたが、哥舒翰は社会経験があまりに少なかった。

だから、“嵌められた”と、今は思う。

逆上させられ、人を殺めた。

王忠嗣は、その構図を説いてくれた。

あれから、自分は冷徹になったと、思う。

王忠嗣は、いい師匠だった。

年下であったが、父親のようであった。

城は、応龍城とした。

吐蕃は、青海の自分たちの居た場所には、もう近づかなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ