宦官・高力士の出世
唐王朝が開かれてから、辺境の司令官は、忠実で名のある臣を用い、長く同じ職に留まることはさせなかった。
遙領もなかったし、地方統治の兼務もなかった。
功をたてた者は、常々、朝廷に入って宰相になった。
古くは、李靖、李勣などであり、
開元に入ってからは、郭元振、張説、杜暹、李適之などがいる。
皆、辺境の司令官から朝廷に帰り、宰相になったのである。
東西南北、四方の蕃族の将軍は、阿史那社爾、契ひつ何力など、才略があっても、専任の司令官にしないでいた。
開元になり、玄宗は、まわりの国を手に入れようと、辺境の司令官を十年たっても替えないでいた。
その地の事情をより知る者の方が、戦に有利と、考えたからである。
長く任じる始まりだった。
皇子である、慶王、忠王、宰相である蕭嵩、牛仙客たちは、任命されても、赴任しない遙領の始まりでもあった。
蓋嘉運、王忠嗣は節度使を幾つも兼ねた。
李林甫は、辺境の節度使が宰相になる道をふせごうと思い、胡人は字を知らないことを上奏した。
文官が司令官になりますと、矢や石に怯えます。
賎しい胡人を用いるのがいいのではないでしようか?
胡人は勇敢で戦い慣れていますし、賎しい者は、仲間がありません。
陛下が、恩をかけると、奴らも、必ず朝廷のために命懸けで尽くしましょう。
玄宗は李林甫の言葉を喜び、安祿山を用い始めたのであった。
この頃には、各地の節度使に胡人を用いていた。
安思順、哥舒翰、高仙芝たちは、皆、胡人である。
精鋭の兵は、北方辺境を守備していた。
安祿山の担当部署も含まれる。
だから、国の中で兵の配分が偏ることになった。
この異例の状態は、李林甫、個人の欲が出発点であった。
天宝七載(748年)
四月、左監門大将軍、知内侍省事、高力士が加驃騎大将軍となった。
従一品である。
唐の建国の折り、太宗様は、内侍省の者、宦官は三品以上にすることを禁じた。
後漢が滅びた原因が、宦官の専横だったからである。
太宗様は、唐が後漢と同じ轍を踏まないようにと、将来を案じた親心からの配慮だったのである。
宦官に力を持たせないように、考えた策であった。
玄宗は、高力士がよく仕えてくれると、優遇していた。
玄宗は太宗様のことは、敬っていた。
だが、太宗様の決めた決まりは、守らなかった。
折衝府、都督府、都護府も、司令官は漢人とする、長くはおなじ職に留めない、などの、慣例としての決まりはあった。
節度使と名称は変わっても、決まりは、受け継がれるはずである。
だのに、節度使は、変容した。
そして、戦についても同じだった。
太宗様は戦で唐の領土を広げた。
それは、玄宗の目指した太宗様へのあこがれの一つであった。
太宗様は民に支持されていた。
なぜか?
それは、民の生活を苦しめない範囲での戦だったからである。
民の生活を巡視しなくなった玄宗とは、較べられない。
太宗様は、様々な形で統治のやり方を伝えていたのである。
玄宗は、太宗様の華々しい結果だけを見て、成果だけを目指したのである。
玄宗は、順調だから問題はないと、気が弛んでいたのだろう。
それと、俶の存在が、強気にしていたのかもしれない。
なにがあっても、俶が尻ぬぐいをしてくれる、と。
六月、玄宗は、安祿山に鉄券を賜った。
鉄券とは、文字通り、文字が鋳られた鉄で作った瓦のような物である。
文字の部分は、金を流し込むそうである。
金の字が浮かび上がると、見るからに権威がありそうである。
功臣を封ずる時に与えた割り符で、
“本人や子孫が罪をおかしたら、罪が軽くなる。”
証明書のような物との事である。
“免罪符”いや“減罪符”と言った方が的確かもしれない。
漢の高祖から、始まった制度であり、皇帝だけが発券の権限を持つものである。
玄宗の安祿山への寵愛を知ることができる。