高仙芝と封常清
天宝六載(747年)十二月二十二日、
玄宗は長安に帰った。
玄宗は、御機嫌だった。
楊慎矜の謀反を阻止したと、思っていたからである。
明珠に楊慎矜の家でのくわしい話を聞いていたから、最初から疑っていたのである。
明珠の話を聞いていなければ、受け取り方が違っていたかもしれなかった。
それに、小勃律国に遣わした軍が勝利を伝えていた。
高仙芝なのだな。
玄宗は、西域に送る将軍をずっと、探していた。
太宗様のように唐の領土を広げたいと、即位した時から、望んでいたのだ。
だが、誰に指揮をとらせるか、ずっと悩んでいた。
何万もの騎馬兵を従えて、百日以上旅をして戦う。
それも、気候など、唐とは条件が違う場所での戦いだ。
誰を信頼して、兵を託せばいいのか?
答が出たと、思えた。
だから、御機嫌なのであった。
十二月二十五日、
玄宗は、百官に命じて、尚書省において貢物を調べさせ、すべて車に乗せ、李林甫の家に賜った。
いわば国家の税収を、李林甫に与えたのである。
目の前の障害がとり除かれた気分だったからである。
李林甫は、謀反人、楊慎矜の排除に力を尽くしてくれたと思っていたのである。
玄宗なりの、感謝の気持ちの表れなのであった。
玄宗が心に決めた将軍、高仙芝は、高麗人であった。
父親、高舎鶏は初め河西節度使の将軍、四鎮の校将であった。
高仙之は二十才過ぎ、父親が安西都護府に勤務するのに従った。
そして、父親の功績により、遊撃将軍になった。
高仙之は姿形は美しく、勇猛で騎射が得意だった。
安西四鎮節度使の夫蒙霊さつは、高仙芝を、安西副都護、都知兵馬使、四鎮節度副使に任じたいと、たびたび朝廷に願い出た。
そして、高仙芝は、夫蒙霊さつの希望通り、その地位に就いた。
ある時、吐蕃の公主が、小勃律王の妻となった。
すると、小勃律国の近くの二十余りの国が、皆、吐蕃に味方して、貢献に来なくなった。
小勃律国に近い節度使に討つように命じたけれども、上手くいかなかった。
そこで、高仙芝を行営節度使として、一万の騎馬兵で小勃律国を討つようにと勅命が下ったのである。
安西都護府から百日余り、五識匿国にある特勒満川に着いた。
道は三道あり、一ツは北谷道、一ツは赤仏道、そして高仙芝はあと一ツの道、護密道を進んだ。
そして、七月十三日に、吐蕃の連雲堡の下で会うことにした。
連雲堡は南は山を背にし、北は娑勒川があり、守りの固い場所であった。
そこには、兵が一万人近くいた。
不意に唐の兵が来たので、大いに驚いた。
そして、山を背にしているので、戦を拒み、投石機で酒壺のような石を矢のように飛ばしてきた。
高仙芝は高りょうの郎将、李嗣業を長刀隊の将とした。
そして、
一日かけずに、早く敵を討て。
と、命じた。
李嗣業は、旗を手に取り長刀をもち、先頭にたって険しい坂を登って行った。
八時頃から戦いはじめ、十時頃には勝利が見えた。
五千人の兵を殺し、千人以上の捕虜を得た。
他の者たちは皆逃げた。
逃げる、と言っても、山岳地帯なので、登り降りが慣れているから、出来るのである。
中使の辺令誠は、重装備で追うのは危険だと思い、追わなかった。
高仙之は傷ついたり、病気の者三千人でその城を守るよう。
に、辺令誠に命じた。
険しい坂の登り降りは、怪我によくないと思ったからである。
三日して、坦駒嶺に着いた。
目の前には阿弩越城があった。
高仙芝は、兵が険しい坂を下るのを厭がるのではと、恐れた。
だから、まず、胡の衣を着て騙し、阿弩越城を守る者に迎えにこさせるようにした。
高仙芝は
阿弩越城の者は本当は唐に帰りたいのだ。
娑夷水の藤橋は断ち切ろう。
と、言った。
小勃律王は娑夷水に接するせつ多城にいた。
藤橋は、吐蕃と小勃律国を結ぶ橋なのである。
高仙芝は喜び、兵を下らせた。
三日後、阿弩越城の迎えの者が、やって来た。
次の日、高仙芝は、将軍、席元慶を千騎と共に先に行かせた。
高仙芝は、
小勃律国は、吐蕃の大軍が援護に来ると聞いている。
はげしい戦が始まると思っている。
だから、家臣や百姓は山や谷に向かって、必ず逃げるだろう。
まず、陛下が鮮やかな錦を賜るとおっしゃっていると、取りだして見せ、呼び返すのだ。
大臣たちが来たら、縛って、私を待ちなさい。
と、席元慶に言った。
席元慶は言葉通り、大臣たちを縛った。
小勃律王と妻である吐蕃の公主は岩窟から逃げた。
捕らえられなかった。
ここに至り高仙芝は、駐留していた吐蕃の大臣たち数人を切った。
藤橋は城からなお六十里離れていた。
高仙之は、席元慶を急いで遣わせ、藤橋を切り落とさせた。
吐蕃の兵が来た時は渡れなかった。
藤のつたの橋は架けるのに一年かかる。
吐蕃からの援軍は、もう、期待できなかった。
高仙芝は、小勃律国王とその妻を招いて説得し、投降させた。
国は平定された。
ここで、払菻、大食の胡の七十二国がみな畏れて投降した。
高仙芝は判官王庭芬を長安に、戦勝報告に遣わせた。
高仙芝は、小勃律国王とその妻吐蕃の公主を捕虜として伴い、安西節度使に着いた。
夫蒙霊さつは怒っていて、慰労の迎えを出さなかった。
夫蒙霊さつは、高仙芝を詈って、
高麗の奴め。
于てん使は誰がそなたのために上奏したのだ?
中丞、あなたです。
えんき鎮守使は誰のおかげだ?
中丞です。
安西副都護使は誰のおかげだ?
中丞です。
安西都知兵馬使は誰のおかげだ?
中丞です。
私の指示を待たないで、戦勝報告を奏したりして!
高麗の奴め。
そなたの罪は斬罪に値する。
ただし、このたびの新しい功績で、処分はしない。
高仙芝は、ただ謝った。
高仙芝は知らなかったのだ。
辺令誠が、密かに朝廷に報告していたことを。
高仙芝は、死ぬような思いで、功を立てたのです。
後々、朝廷に役立つ者となるのでは?
十二月二十八日、
玄宗は、高仙芝を夫蒙霊さつに替えて、安西四鎮節度使にした。
鴻臚卿、御史中丞にも抜擢した。
高仙芝に期待していたのである。
夫蒙霊さつは呼ばれて、朝廷にやってきた。
高仙芝は、夫蒙霊さつを見て、偉い人に対するように走り従った。
夫蒙霊さつは、自分が高仙芝にきつく当たっていたのが知れると、恐れた。
安西四鎮痛節度使の皆は、高仙芝が、いつも夫蒙霊さつを怖がっていたのを知っていた。
だから、
高公は、顔は男子なのに、心は女子のようだ。どうして?
と、言っていた。
かつて、逹奚緒部が謀反を起こしたことがあった。
黒山から西の砕葉まで急行して、撃つようにとの命が下った。
夫蒙霊さつは高仙芝に、二千騎で後を追いかけ、踏み潰すように言った。
逹奚は遠くに逃げて、人も馬も疲れきっていた。
生け捕りにして、すべて者の首を切った。
命が実行されたということだ。
高仙芝には、封常清という部下がいた。
封常清の母方の祖父は罪を犯して安西の地方に流刑にされていた。
そして、そこで、胡城の南門を守る仕事をしていた。
よく本を読み、いつも封常清を門の楼上に座らせ、読んだ本を教えた。
その祖父が死んだのは、封常清が三十すぎの時であった。
封常清は一人ぼっちで貧乏だった。
当時、節度使、夫蒙霊さつのところに、将軍高仙芝が都知兵馬使としていた。
有能な人物として知られ、出かける時は、私兵三十人以上の人が衣鮮やかに、付き従うのであった。
封常清は発奮して、薄い木片の手紙“牒”を投じて“側で仕えたい、”と頼んだ。
高仙芝は封常清に会って見ると、細く痩せていて藪にらみのうえ、足は短くびっこで、寝ているような顔付きであった。
断った。
次の日、また牒が来た。
私の側仕えの者は足りている。
どうして、また来たのだ?
高仙芝は言った。
封常清は怒って言った。
私は、あなたの高義を慕って来ました。
願わくば近くに仕えたいと来ました。
だから、直接来たのに、高公は何で拒むのか?
もし、高公が多才でいかなる事務もこなす人を取れば、則ち、高公の望み通りになり、
もし、容貌で人を取れば、おそらく才能ある人を失なうでしょう。
高仙芝はなお拒んで、雇わなかった。
封常清は高仙芝の出入りを、みずからうかがって、朝から夕まで、その門を離れなかった。
数十日して、高仙芝は、やむを得ず、側仕えの補助にした。
封常清はそんな人物であった。
その封常清が、逹奚部の謀反の戦勝報告書を、密かに書いた。
軍がどこの井泉で野営したか、敵と遭遇した時の様子、謀略をどのようにして勝ったか、あった事をすこぶる精確に書いた。
高仙芝は戦勝報告書に、自分が言って欲しいことがすべて書かれていたので、とても驚いた。
凱旋して帰ると、夫蒙霊さつが労をねぎらってくれた。
朝廷では、判官劉ちょう、独狐峻たち高官が、
この勝利報告書は誰が書いたのか?
高副大使の部下なのか?
このような人物をどうやって得たのだ?
と、
尋ねた。
高仙芝は、
私、高仙芝の側仕えの封常清です。
劉ちょうたちは、高仙芝に下手にでて、封常清に会わせて欲しいと頼んだ。
そして、会った封常清と、昔からの知りあいのように親しく語りあった。
小勃律国を破った事で、高仙芝は安西節度使となった。
封常清も戦に功績があったと、慶王府の録事参軍事務と、節度判官に抜擢された。
封常清は個人に雇われた身分ではなく、朝廷の官僚となったのである。
高仙芝が征討に出る時は、信頼している封常清に後を任せた。
高仙芝は郎将、鄭徳ぜんに家の事を委せていた。
鄭徳ぜんは乳母の子で、高仙芝に本当の兄弟のように可愛いがられていた。
だから鄭徳ぜんは、高仙芝の威を借り、軍の中で巾をきかせていた。
ある日、封常清が外で、緒将と語らっていると、鄭徳ぜんが馬を走らせて来て、封常清を突き飛ばして走り去った。
封常清は政庁に入ると、鄭徳ぜんを召喚して、拘束した。
封常清は席を離れて言った。
常清は、そなたたちも知ってのとおり、貧しくて、微賎の出だ。
今は、中丞の命令で留守の節度使を預かっている。
郎将は、皆の前で、どうして、私を突き飛ばしたのだ?
そして、叱って言った。
安西節度使の軍の規則を正すために、すみやかに死んでもらう。
杖刑六十が執行された。
高仙芝の妻と乳母は、門の外で哭きながら、助けを求めていた。
鄭徳ぜんは、顔が地に着いたまま、引きずり出された。
どうしようもなかった。
だから、高仙芝に手紙を送った。
高仙芝は読んで、驚いて、言った。
「死んだのか?」
それから、高仙芝は封常清に会ったが、遂に、なにも言わなかった。
封常清も、また、謝らなかった。