天宝三載
天宝三年(744年)になったが、この正月から“年”の代わりに“載”が使われることになった。
だから、天宝三載である。
玄宗は、一月六日、また麗山温泉に出かけた。
朝賀のために帰って来たみたいなものだった。
去年十一月二十日に長安に帰ってから、二カ月たっていなかった。
そして、二月六日に帰って来た。
年をとって、冬は寒くていかん。
温泉は、年寄りには極楽だ。と
言われれば、誰も、なにも言えないのであった。
玄宗は、六十才であった。
当時では、立派な年寄りであった。
二月十三日、
譲皇帝の息子琳を嗣寧王に、
故ひん王守礼の息子承寧を嗣ひん王に、
譲皇帝の息子じゅを嗣申王に、
恵宣太子の息子珍を嗣岐王に、
同じくいんを嗣薛王に封じた。
二十六日、皇太子紹の名前を亨と改めた。
三月、平盧節度使・安祿山を范陽節度使に任じた。
安祿山は、平盧、范陽の二つの節度使になったのである。
これも、おびただしい進奉が、ものを言ったのである。
去年、長安を訪れて、玄宗が贈られて喜ぶ物を、安祿山は知ったのである。
“将を射んと欲すれば、まず馬を射よ”
玉環様に喜ばれるものを、まず考えることにした。
冬の前に、最高級の毛皮を四枚、贈ったのである。
声を上げて喜ぶ玉環様や姉上たちを前に、ニヤついた玄宗の顔が目に浮かんだ。
今度の范陽は、平盧より由緒がある分、経費が多い。
今まで以上の収入が見込める筈だ。
ハッハッ、
進奉、楽しみにして下さい。
経費がたくさんある分、いっぱい贈らしてもらいますからね。
何なりと、ご注文下さい。
その替わり、出世の方、宜しくお願いしますね。
陛下は、お育ちがよろしいから、進奉の仕組みがわかっておられない。
節度使に渡される経費、陛下のお金で賄っているのですよ。
ありがたいことです。
感謝していますよ。
李林甫は、朝廷で楊慎矜と会った。
諫議大夫に就任して以来だった。
それまで、故意に、顔を合わせないようにしていたのか、会ったことがなかったのである。
一年以上になる。
楊慎矜は、李林甫に会って、恭しくあいさつをしたのである。
あれほど、自分を避けていた楊慎矜が自らあいさつに寄ってくるとは。
李林甫は、楊慎矜が自分の軍門に降った、と思った。
楊慎矜の今の職位、諫議大夫は、張九齢が長安を出てからすぐに、玄宗への上奏を一切禁じた部署である。
仕事をしないのが、仕事の部署である。
やる気のある者には、辛い部署である。
私は、宰相だ。
朝廷の事は、すべて私の思うがままだ。
息のかかってない処なぞないのだ。
やっと、解ったのだな。
九月、楊慎矜は、また御史中丞となった。
それと、緒道鋳銭使の役を仰せ付かった。
李林甫は、これで東宮の情報を得ることが出来る。
だが、先は長いな。
と、思った。
次の準備をしなければ。と、つい、口に出た。
ある日、玄宗は、おもむろに、高力士に言った。
朕が長安を出なくなって、十年近くになる。
唐の国は平和で安定している。
朕は、これからはのんびりと過ごしたい。
李林甫に政事を任そうと思うが、どう思う?
陛下、皇帝が国内を巡り見ることは、昔からの慣わしです。
おまけに、皇帝の権力は皇帝が使うものです。
李林甫の勢力はすでに出来ています。
李林甫にとやかく言う者は、誰もいません。
玄宗は、機嫌が悪くなった。
高力士は、首を垂れて謝った。
私は狂っていました。
馬鹿げたことを言ってしまいました。
死に価する罪です。
玄宗は、高力士の傍に酒を置いた。
見ると、宴会の用意が出来ていた。
左右に侍る宦官たちが、みんなで
万歳、と
叫んだ。
高力士は、これからは、国のことは、もう口にすまいと思った。
玄宗に嫌われたくなかったのである。
ずうっと側に居たかったのである。
玄宗様が大好きだ。
まるで、家族のような気がする。
武三思様が亡くなって以来、玄宗様の傍にいる。
どれだけの時間を一緒に過ごしたことか?
ずうっとあこがれていた方だ。
側にいるだけで幸せだ。
いろんな人を見てきた。
地位ではなく、私には、最高のお方だ。
仕えて、胸を張れるお方だ。
出来ることなら、私は玄宗様の最期に寄り添いたい。
まるで、女子みたいだな。
フ、フ、
でも、それが私なのだ。