寧王の死
開元二十九年(741年)
十月、玄宗は麗山温泉に出かけた。
十一月、司空ひん王李守礼が亡くなったとの、連絡が入った。
李守礼は伯父章懐太子李賢の息子で、玄宗の従兄弟にあたる。
李賢は高宗様と武后様との次男であった。
守礼は幼い頃から十数年、武后様により幽閉され、年に何度も杖刑を受けていた。
そのせいで、悲しい技を持っていた。
雨が近いと傷が痛み、雨を予測出来たのである。
この話は涙なくしては、語られなかった。
同じ武后様の孫として、自分にも起こり得た事であったからである。
章懐太子の子供で生き残っていたから、危害を加えられたのである。
あの時代を思い出し、玄宗はしんみりとなった。
そうこうしているうちに、兄・寧王が、体調を崩して寝こんでいるとの連絡が入った。
体調が悪いから、同行しなかったのである。
玄宗は大慌てで帰路についた。
もっと早く帰るべきであった。
温泉の滞在が二十五日にもなっていたのだ。
玉環との湯治は楽しくて時を忘れるのであった。
兄弟で生きているのは、兄寧王だけである。
六才年上の兄上である。
朕に皇位を譲ってくれた、兄上である。
後悔しないように最期を見取りたかった。
帰りの車駕の中で悔やむことしきりであった。
本来ならば、嫡長男である寧王が皇位に就くはずであった。
だが、韋廃后を殺し、太平公主を倒した朕に功績があるからと、皇位を譲ってくれたのだ。
そして、お互いのためと、政事には一切かかわらず、嫡長男である、己れの立場を利用しようとする者がいたら朕に迷惑がかかると言って、付きあう人も制限して、生きてきたのだ。
朕は、善い兄上に恵まれた、幸せな弟だ。
周りの皆は、朕が音楽の才に恵まれているという。
だが、兄上の方が素晴らしいかもしれない。
かつて、涼州が新曲を献上したことがあった。
曲は演奏され、その場にいた王たちは褒めた。
だが、兄上は
この曲は、たとえ耳に心地良い曲であっても、音楽の理論からいうと混乱している。
君を卑しめ、臣下に身分不相応なことをさせる、亡国の音楽だ。
と、云った。
朕は、なにも云わなかった。
云えなかったのだ。
朕は、兄上に及ばない。
また、夾城の複道を二人で歩いている時、下にいた兵士が食べかけの餅を捨てたのを、朕がたまたま覗き見て、高力士に打ち殺すように云ったのを、兄上は諫めた。
皇帝が、民を覗き見たのがわかると、よくない。
皇帝は礼を欠いていると。
兄上は、普通に育った朕とは、違っていた。
もっと視野が広くて、視点が違っていたと思う。
玄宗は寧王を見舞った。
長くないのが見てとれた。
寧王は、玄宗を見て、
来てくださったのですね。
と、つぶやいた。
陛下が羨ましかった。
陛下はな何かしようと云うと、みんな、パッと従った。
兄である私が云うと、ぞろぞろと従った。
皆、私の立場に従った。
陛下には、人柄に従った。
陛下だから、譲ったのです。
他の者なら譲らなかった。
陛下には皇帝が似合うのです。
これからも、唐の主として、皆を導いて下さい。
子供たちの事をよろしくお願いします。
玄宗は、何も云えなかった。
最後まで優しい兄であった。
ただ涙が止まらなった。
黙って、手を握りしめた。
玄宗は、兄寧王に“譲皇帝”と諡した。
妻である元氏を恭皇后とした。
父上、叡宗の橋陵の傍らに、恵陵として葬った。