仲宗根元校長八十三歳登場
尚吾が気に入らないのはヘノコの海に飛行場を建設することに反対をする理由にジュゴンを利用している人間達の偽善に対してであった。ジュゴンはウチナー近海に十数頭は居るだろうというのが専門家の推測だ。確認ではないよ推測だよ。その十数頭もウチナーのどこに住んでいるのかは誰も知らない。ウチナーの海の沖を泳いでいるのを漁船や飛行機が見つけたことはあるが、ウチナーの海岸で見たことはない。つまりウチナーの海岸に棲息しているジュゴンは一匹もいないということだ。それなのにヘノコの海をジュゴンの里と呼んでいる。ヘノコの海にいつもジュゴンが居るかというとそうではなく一年に一回見るかどうかなのだ。それなのにジュゴンの里と呼べるのかと尚吾は不満を持っているのだ。たった十数頭しかウチナー近海に居ないだろうと言われているジュゴンをウチナー近海に棲息している動物として認めるわけにはいかないと尚吾は考えている。フィリピンあたりの南の海に棲息しているジュゴンがウチナーに旅行してきたのだろうと尚吾は考えている。だから尚吾は人間の都合でジュゴンの里などと呼ぶのは政治的に利用していると嫌悪しているのだ。
本気で絶滅危機動物と言われているジュゴンを保護したいのなら、ヘノコの海にヘリコプターの飛行場を建設する話が起きる以前にウチナーのジュゴンの生態を調査しているはずであるしウチナーのジュゴン保護区が存在していただろう。もし、ヘノコの海に飛行場建設の話がなかったならジュゴンの保護地域にヘノコを主張することになっていたかどうか分からない。もし西海岸のナゴ湾にヘリコプター基地を作る話が出たらナゴ湾がジュゴンの里になっていただろうというのが尚吾の見解なのだ。私の見解ではないよ。尚吾の見解だからね。それを忘れないでくれ。
「この鮎はねマスター。ウチナーの川に鮎を再生させただけではなく、数を増やして観賞用だけではなく食べれるまでになったのだ。つまり単なる再生のための金の消費だけに終わらず生産してお金を生み出すまでになったのだ。人間と自然との最高の関係だよ。」
尚吾の話は続く。
「ジュゴンなんてグロテスクで食べる気にもなれない。きっとジュゴンの肉はまずいだろうな。」
尚吾がスナックのみんなに聞こえるようにわざとらしい大声で言ったものだからスナックの空気が白けたと同時にいくつかの目が鋭く尚吾を睨んだ。尚吾の言葉にマスターの体は凍り付いてしまい白けた場を盛り上げる言葉なんて思いつきようもない。
「食い意地が強い人間は嫌だな。」
と言って麻衣子は皮肉たっぷりの口調で言うとコップの酒を一気に飲んだ。
「食い意地だけが強くて美意識が欠落している人間は嫌いだね。」
と言って麻衣子は空になったグラスに酒を注いだ。
ジュゴンを食べる話にアキはかーっとなった。ジュゴンがうまいかまずいかなんて発想すること事態が間違っている。海の汚染で絶滅の危機に瀕しているジュゴンを絶滅させないためにどうすればいいのかがジュゴンのテーマであるし、ジュゴンの話はそこに尽きる。ジュゴンが可愛いかグロテスクであるかは意見が分かれてもアキには我慢ができる。しかし、絶滅寸前のジュゴンを食べる話は絶対に許せない。
感情の激しいアキはコップをカウンターに叩き付けた。アキがコップをカウンターに叩き付けたのでジョンは驚いた。アキに英語で「どうしたのか。」とアキが怒っている理由を聞いたが怒っているアキがいちいちジョンに説明するはずがない。
「ジュゴンを食べるなんて信じられない。絶滅するかも知れないかわいそうなジュゴンを食べるなんて人間じゃないわ。」
「アキ。しょうはジュゴンを食べるとは言っていないわ。」
アキの怒りを静めるために麻衣子が尚吾を弁護したがアキの怒りは収まらない。
「そう、食べるとは言っていない。グロテスクで食べる気になれないと言っただけだ。」
尚吾は酒をゆっくりと飲みながら言ったがアキの怒りは収まるどころか尚吾の悠然とした態度にますます怒りが高ぶってきた。
「同じことです。食べたいなら食べると言っている。」
「食べる気になれないのにどうして食べることになるのだ。」
「だから食べる気になれないから食べないということは食べる気になればジュゴンを食べるということじゃない。」
「グロテスクで食べる気になれないのだから食べないということだ。」
尚吾の天邪鬼な言い方に単純な性格のアキは怒った。立ち上がって強引に麻衣子と席を代わり尚吾の隣に座った。マスターはアキと麻衣子が席を代えたのでほっとした。麻衣子と尚吾が喧嘩するよりはアキと尚吾が喧嘩をした方が穏やかになるとマスターは知っているからだ。麻衣子は隣のジョンにせがまれてアキと尚吾の言い争いの内容をジョンにも分かるようなやさしい日本語で説明した。
「ジュゴンの問題は食べる食べないの問題ではないでしょう。」
アキが突っ込むと尚吾は、
「そうかなあ。」
とはぐらかす。
「そうですよ。しょうさんは時代遅れ。いいですか。ジュゴンは絶滅の危機にある希少動物なのよ。皆で保護して大事にしなければならない動物なの。しょうさんはそのことを知らないでしょう。」
「知らないなあ。」
尚吾はアキを小ばかにしたような態度でにやりとしながら答えた。「知らないなあ。」と尚吾に言われてアキは怒るよりもジュゴンを保護しなければならないことを尚吾に理解させようと必死になった。
「いいですか。タイでは国がお金を出して保護するようになっているのですよ。漁師もジュゴン保護に協力しているくらいだから。」
「ふうん。タイの漁師が保護に協力しているのはいやいやながらじゃないか。」
「しょうさん。私怒るよ。」
尚吾の気の無い対応にマキは苛々してきた。尚吾は悠然としてアキのコップに酒を注いだ。
「アキ。落ちつきなよ。さ、飲んで。」
アキは尚吾に薦められて一気に酒を飲んだ。
「ほう、いい飲みッぷりだ。このあわもりはうまいだろう。十五年物の古酒だよ。」
「うわー。柔らかくてこくがある。あわもりがこんなにおいしいなんて始めて知ったわ。」
酒のおいしさにアキのイライラがすーっと消えた。おいしい酒を飲んでアキの怒りが消えたと書いたことに君は半信半疑かも知れない。でもアキは熱しやすく冷めやすい性格をしているのだ。怒ったかと思えば笑い。笑っているかと思えば怒る。アキはそんな女性なのだ。
麻衣子の説明を聞いていたジョンが「オーノー。」と叫んだ。立ち上がって尚吾に「ユーアークレイジー。」と言い、高江州をどかして尚吾の側に座ると怒って英語でまくし立てた。ジョンがまくし立て終わる頃に、
「アイドンノー イングリッシュ。」
と尚吾は言った。英語を知らない人間に英語をまくし立てたジョンは「ソーリー。」と言ってぺこりしてからたどたどしい日本語で尚吾を責めた。
「尚吾さん。あなたの頭はおかしいです。大変クレイジーです。ジュゴンはかわいそうな動物。皆死ぬかも知れない。みんなで大切にするものです。ジュゴンを食べるなんてとってもクレイジー。ジュゴンは皆で親切にするものです。尚吾さんの頭はクレイジーです。」
「ジョンはジュゴンが好きなのか。」
「とても好きです。とても可愛いです。」
「ジョンはジュゴンを何回見たのか。」
「今日始めて見ました。」
「アキは何回見たのか。」
「私も今日が始めてよ。滅多に見れるものではないわ。」
「滅多に見れないものを見たから感動したのだろう。」
「そうよ。」
「ウチナーの海岸にジュゴンがうじゃうじゃ居たとしたら感動なんかしないよな。むしろ迷惑がるのじゃないか。」
アキは口ごもってしまった。
「ジュゴンが希少動物で絶滅保護指定されているから、滅多に見ることができないからジュゴンを見て感動するしあんなグロテスクな動物を可愛いなどと言うのだ。ウチナーの海岸にジュゴンがうじゃうじゃ居るのを想像してみろ。気味が悪いよ。ジュゴンよりキスとかかつおとかガーラとか魚らしい魚がうじゃうじゃいた方がいい。そう思わないかアキ。うじゃうじゃ居たらのことだよ。」
尚吾は「うじゃうじゃ」を何度も強調した。尚吾は何度も「うじゃうじゃ」と言い、「うじゃうじゃ。」を何度も聞いているうちにアキは気分が悪くなってきた。
きみも想像してごらん。海岸に銀色の腹の魚が群れを作ってすいすい泳いでいる海岸の光景とジュゴンがゆっくりと群れて海藻を黙々と食べてうじゃうじゃと群れている海岸の光景ではどちらが美しいか。アキは素直な女だから尚吾に言われた通り海岸にジュゴンがうじゃうじゃいる光景をイメージしたから気分が悪くなってきた。海岸がジュゴンで埋まり海面はジュゴンの肌色である灰色だらけになった海。とてもじゃないが美しい光景とは言えない。尚吾の言う通りジュゴンが海岸にうじゃうじゃ居たら感動するより迷惑な存在になってしまう。海岸にグロテスクなジュゴンがうじゃうじゃ蠢いている情景を想像したアキは吐きそうになった。アキは尚吾の巧みな話術にはまり意気消沈した。
「ジュゴンがかわいいと感じるのはジュゴンが希少動物だからだ。絶滅の危機に瀕しているジュゴンを保護しようという気持ちを表に出して自分が善意の人間であるということを他人に思われたいという卑しい心があるからだね。」
アキは尚吾の理屈にしゅんとなった。スナックは白けた雰囲気になった。尚吾の言葉はアキを苛める理屈だと常連客の金城や諸味里や池間は知っているが、アキの味方になって尚吾に反撃したくても誰も尚吾の屁理屈には勝てそうにない。皆はアキに同情したがアキの味方にはなれなかった。
「君、名前はなんと言うのかね。」
奥のカウンターに座っている老人が尚吾に声を掛けた。老人は年齢八十三歳の中曽根元校長である。あらぬ方向から呼びかけられた尚吾はお前なんぞに名前を語る筋合いはないとばかりに仲宗根元校長を一瞥すると仲宗根元校長を無視して酒を飲んだ。尚吾の代わりにスナックのママ美紗子が中曽根元校長に尚吾の名前を教えた。
「尚吾君。君には地球を愛する心がない。自然を愛する心がない。ジュゴンはとても繊細な動物なんだ。きれいな海に住むことしかできないのだ。人間の強欲な開発で海が汚れたためにジュゴンの数は減っていったのだ。ジュゴンが稀少な存在になってしまったのは人間の性なのだ。人間の罪なのだ。人間に地球を愛する心。自然を愛する心があればジュゴンも絶滅の危機に瀕することはないのだよ。尚吾君のような人間がジュゴンを絶滅させるのだよ。」
威厳のある仲宗根元校長のご意見に尚吾以外の人間は頷いた。尚吾は仲宗根元校長の意見を無視して焼いた鮎をおいしそうに口にほおばり酒をぐいっと飲んだ。
「うまいなあ。」
尚吾が自分を無視して鮎をおいしそうに食べるものだから中曽根元校長の口調が強くなった。
「ジュゴンの保護は世界的な流れになっているのだよ。ウチナーの海に何頭のジュゴンが生息していると思うかね君。たったの十六頭だよ。十六頭しかウチナーの海に棲息していないのだよ。なんとも悲しい現実だよ。人間の悪の欲望がなせることだよ。」
マキはウチナーの海に十六頭のジュゴンしか棲息していないことに愕然とした。
「十六頭しかいないの、おじいさん。」
おじいさんと言われて仲宗根元校長はむっとした。孫やひ孫におじいさんと言われるのは仕方がないが大人の世界で論争をする時はおじいさんと言われたくない。おじいさんと言われることによって自分の考えが老人のたわ言と思われることを中曽根元校長は非常に嫌った。
「君の名前はなんと言うのかね。」
「アキです。」
「アキさん。私にはれっきとした中曽根という名前があります。おじいさん呼ばわりは不愉快ですな。」
「すみません。仲宗根さん。ウチナーの海にはジュゴンは十六頭しか棲息していないというのは本当ですか。」
「最近調査して十六頭はいるだろうということだ。」
アキはジュゴンの絶滅をますます心配した。一体ウチナーのジュゴンはどんなペースで減っているのだろうか、アキはとても気になった。
「十六頭しか居ないの。それじゃあ絶滅待ったなしだわ。仲宗根さん。五十年前は何千頭いたのですか。」
仲宗根元校長の耳にアキの質問は聞こえなかった。校長時代に不都合なことは聞えない振りをする癖があったが八十三歳という老齢になると子供と同じように不都合なことは本当に聞こえなくなっていた。つまり五十年前にウチナーの近海にジュゴンが何頭居たかは仲宗根元校長だけでなくウチナーの誰も知らない。ひょっとすると五十年前も十六頭しか居なかったかも知れない。
アキの言葉が聞こえない仲宗根元校長の演説は続く。
「ジユゴンはきれいな海に育つ海藻しか食べないのだ。ウチナーは欲望に目が眩んだ人間たちが海岸埋め立てをどんどんやって海を汚した。狭いウチナー島なのに山を切り崩してゴルフ場を作ったり団地を作ったりして開発を進めて赤土を海に流出させて海藻が育たなくなった。だからジュゴンも減ったのだ。自分たちの生活さえ豊かになればいいという人間の浅はかな欲望がジュゴンを絶滅の危機に追いやったのだよ。」
仲宗根元校長の意見を聞いてアキは元気を回復した。
「そうですよね。ジュゴンは絶滅危機の魚だから守らなくてはならないですよね仲宗根さん。」
アキの言葉を訂正する必要がある。アキはジュゴンを魚だと思っているがジュゴンは魚類ではない。くじらと同じ哺乳動物だ。アキは海で泳ぐものは全て魚だと思い込んでいるだけのことだからねきみ。アキがジュゴンを魚と言ったからきみもジュゴンを魚だと思わないよう気をつけてくれ。
「おお、自然を愛するお人ですな。ええと、あなたの名前はなんと言ったかな。」
「アキです。」
「アキさん。若い人にもあなたのような愛に満ちた人間がいることは嬉しいことだ。私の酒を受けてくれ。」
仲宗根元校長は500mlのボトルを掴んで差し出した。アキは仲宗根元校長の側に座り軽く会釈してからコップを出した。仲宗根元校長の持つボトルから透明の酒がアキのコップに注がれた。
「ありがとう仲宗根さん。ううん、おいしい。」
酒をぐいっと飲んだアキは幸せな顔をした。
「あなたはどこから来たのかね。」
中曽根元校長は若くて美人のアキが側に座ったので嬉しくなった。
「ナーファから来ました。」
「ほう、遠路はるばるナーファから来たのか。」
「はい、ジュゴンを見ようと思って来ました。」
尚吾と仲宗根元校長の緊張した会話がアキと仲宗根元校長の和やかな会話に転換したのでスナックの雰囲気も和らぎ、それぞれの客がそれぞれの会話を楽しむようになった。