ジュゴンはグロテスクと尚吾言った。ぞー。
君はヘノコの海のヘリコプター基地建設については知らないだろうから説明をしておこう。ウチナーは反戦平和運動がとても盛んな島だ。なにしろ第二次大戦の時はアメリカ軍が沖縄に上陸して烈しい地上戦が行われ十万人近くのウチナーの民間人が殺された。いいか、軍人ではなくて武器を持たない民間人が多数殺されたのだ。ウチナーの人々が戦争アレルギーになるのは君も理解できるだろう。
ウチナーの人々はアメリカ軍基地撤去を叫び続けているがアメリカ軍基地は戦後六十年以上もウチナー島に居座り続けたままだ。戦闘機の墜落、油漏れ、爆音等々の基地被害は多い。その中でもアメリカ兵たちの犯罪は数多く、米兵三人による少女暴行にとうとうウチナーの民衆の怒りが爆発し一九九五年の十月には8万5000人の反米軍基地大集会が開かれたのだ。ウチナー民衆の怒りに慌てた日本政府とアメリカ政府はウチナー民衆の怒りを静めるために基地の統合・整理をすることを宣言した。それで住宅街と密着しているフテンマヘリコプター飛行場はヘノコの海に移すことを日本政府は決めた。
ところが今度はヘノコの住民や漁師や反戦平和運動家や環境保護を訴える人々がヘノコの海にヘリコプター飛行場建設に反対の狼煙を上げたのだ。ヘノコの海には美しい珊瑚礁があり珊瑚礁が破壊されるのに大反対というわけだ。そして、ヘノコにヘリコプター飛行場を建設すると決まった後に、ヘリコプターでヘノコの海を撮影している時にヘノコの海の沖を遊泳しているュゴンを発見したのだ。ジュゴンは絶滅危機の動物であり世界保護動物に指定されている動物である。ヘノコの海のジュゴンを守ろうという機運が出てきた。そうなるとヘノコ基地建設反対運動はますます勢いづき国際環境保護団体グリーンピースも反対運動に加わるようになったからさあ大変だ。
一方ウチナー県の知事はヘノコのヘリコプター飛行場はアメリカ軍が使用するのは十五年限定にし、十五年過ぎたら民間飛行場にするという条件をつけたものだからアメリカ軍はヘノコに移転することを渋ってしまった。政治の世界はとにかくややこしい。私は書きながらなにを書いているのか頭がこんがらがってくる。
とにかくアメリカ軍、日本政府、ウチナー県知事にアメリカ軍事撤去運動や平和運動や環境保護団体やヘノコ住民などが五つ巴やら七つ巴となって現在のところヘノコのヘリコプター飛行場建設は遅々として進んでいない。
どうだウチナーという島は国際的だろう。資本主義国家と社会主義国家が対立している分岐線にウチナー島があるのものだから、ウチナーという島は世界の先端の政治、軍事、環境が絡み合って渦巻きのようになっているのだ。まあのどかな生活を送っているきみには理解できないだろうが、ウチナー島の人々は第二次世界大戦が終わって六十年の間、戦争危機の恐怖の狭間で汲々として生きてきたのだ。アメリカ、ロシア、中国、ヨーロッパ、中近東の政治情勢に一番敏感な庶民は世界の中でウチナー島の人々なのかも知れない。ウチナー島は退屈とは無縁であり、日々世界の危機の試練と闘いながら過ごしている島なのだ。
スナックワリガーミはジュゴンとヘノコのヘリコプター飛行場建設反対の話で盛り上っていたが、尚吾独りだけはアキに聞かれても賛成とも反対とも言わず「ああ。」と生返事をし、盛り上がりを無視するように黙って酒を飲んでいた。
「しょうさん。話も盛り上がっているし例のものを皆に食べてもらいましょうよ。」
高江州は尚吾に言った。スナックの中で一人だけ盛り上がっていない尚吾は「ああ。」と生返事をした。高江州はマスターを呼んだ。
「マスター。預けてあるのをさ。焼いてくれないか。」
「え、紙袋にはなにが入っているのか。」
高江州は得意げである。
「恐らく、マスターが一度も食べたことがない魚だよ。開けてみたら分かるから。早く焼いて。そして皆で食べて楽しく語り合おう。」
「分かった。それじや、魚を焼くよ。」
マスターは紙袋に入っていた魚を焼いた。
魚は全部で十匹だった。マスターとママは焼いた魚を五皿に二匹づつ並べ、大根おろしを添えて出した。スナックの連中は魚を食べながら魚の正体について話し合った。
「キスかな。いやキスではないな。」
「サンマじゃないのか。でもこの味はサンマではないな。サンマにしては淡白な味だ」
焼き魚を賞味しながら魚の正体をそれぞれが模索したが誰も魚の正体を言い当てる者はいなかった。ウチナーで魚と言えば海魚のことしか頭に浮かばない。淡水魚が食卓に出るということはほとんどない。高江州が紙袋に入れて持ってきたのは川魚であった。
「この魚は川魚です。」
「フナなの。」
「それとも鯉。」
川魚といえばフナと鯉しかウチナーの人は思い浮かばない。
「その魚は鮎です。」
高江州は得意げに言った。
「え、鮎。」
鮎という魚はウチナーには棲息していないはずだとスナックの誰もが思っていた。
「本土から取り寄せたの。」
「いえ、違います。この鮎はウチナーの鮎です。正真正銘のリューチュー鮎ですよ。」
戦後のウチナー島は川が汚れてしまったために鮎は絶滅した。しかし、奄美大島に住んでいる鮎をリューチュー鮎と呼んでいるようにウチナー島には鮎が生息していたのだ。
十年前から北部のハネジ川で絶滅したリューチュー鮎を復活させようという運動が起こり、奄美大島に棲息するリューチュー鮎の稚魚を取り寄せてハネヂ川やダムや養殖池で鮎の再生を試みた。そしてリューチュー鮎の養殖に成功し、今では居酒屋などにリューチュー鮎を出荷するまでになっている。
焼かれた鮎を食べながらスナックの皆が話に花を咲かしている時に尚吾はカウンターにあるジュゴンの写った写真の一枚を取り、写真を見ながら、
「なんてグロテスクな奴だ。」
と呟いた。尚吾の呟きにスナックは一瞬静かになった。
「なにがグロテスクなの。」
麻衣子が聞いた。
「ジュゴンだよ。希少な存在だからいいが、こんな奴がウチナーの海にうじゃうじゃ居たら俺は気味が悪くて海に行けないね。」
「ジュゴンがグロテスクだというの。」
麻衣子が言った。やや厳しい声だ。
「イルカなら可愛いけどね。ジュゴンは肌色も悪い。ぶよぶよしてグロテスクだ。それに比べて鮎は美しい。キスやチンやエーグァー、グルクンなどの魚は美しい。高江州。ジュゴンを食べる気になれるか。こんなグロテスクな姿を見れば食べる気になれないよな。」
高江州は尚吾に話を振られて返事に困った。ジュゴンを食べる気になれるかと聞かれればジュゴンを食べる気になれないと答えるのは当然だ。そもそもジュゴンを食べるという発想が高江州の頭の中にはなかった。それに、ジュゴンが可愛いと言われればそんな気がするしグロテスクと言われればグロテスクであるような気もする。つまりは高江州にとってジュゴンが可愛いかグロテスクであるかはどうでもいいことなのだ。ジュゴンの話題で酒の宴を楽しめばいい。
「はあ、なんと言えばいいか。僕にはどうも。」
高江州は返事に困った。白けた空気がスナックに澱み始めたのを解消しようとマスターは、
「まあまあ、しょうさん。」
と寄って来て、
「鮎を始めて食べたけど風味のある魚ですね。ウチナーに鮎が居るとは驚き桃の木シークワーサーの木です。」
と白けた場を持ち直そうと冗談交じりに話したがその効果はなく麻衣子は黙りアキは尚吾を睨んでいる。
「鮎はねマスター。ウチナーの川に鮎を再生させただけではなく、数を増やして食べれるまでになったのだ。つまり単なる再生のためのお金の消費だけに終わらず生産してお金を生み出すまでになったのだ。人間と自然との最高の関係だよ。」
きみ。きみは尚吾は社交性に欠けたひねくれ者だと思っているだろう。確かに尚吾は社交性には欠けている。しかし、ひねくれ者と思うのは間違いだ。ジュゴンの話で皆が楽しく賑わっているのを気に入らないので楽しい雰囲気を壊す目的で尚吾がジュゴンのことをグロテスクと言ったと思ったら間違いだ。尚吾は本当にジュゴンをグロテスクと思っていて、グロテスクなものを可愛いと言うのは間違っているのに他の人間たちが可愛いなどと言うものだからそれは間違いでジュゴンはグロテスクであると正当な判断をするべきであると尚吾は言いたいのだ。
私も尚吾に近い考えなのだが。私なら盛り上がっている宴を壊さないためにジュゴンがグロテスクだなんて決して言わない。目が可愛いとか海藻を食べている仕草は赤ちゃんが哺乳瓶を抱えてミルクを飲む仕草に似ていて可愛いとか言って盛り上がっている宴をもっと盛り上げるように努力する。ところが尚吾は違う。グロテスクなものはグロテスクでありグロテスクなものを可愛いと言うのは気に入らないのだ。
ところできみはジュゴンを知っているかい。ジュゴンは人魚のモデルだと言われている。あの美しい人魚のモデルだよ。きみがジュゴンを知らないのなら人魚が変形した海の中の哺乳動物を想像したまえ。きっと人魚姫に似た美しい姿をイメージするだろう。もしきみが人魚姫のような美しい姿をウメージしてジュゴンにあこがれるならきみは一生ジュゴンを見ない方がいい。その方がジュゴンに幻滅しなくてすむ。
もしきみがジュゴンを知っているならジュゴンが人魚のモデルとなったことに納得するかい。恐らく納得しないだろうね。人魚姫とジュゴンでは美しさにおいては雲泥の差がある。きみはそう感じた筈だ。ジュゴンが海藻を食べる仕草は赤ちゃんが手で物を食べている仕草に似ている。赤ちゃん(またはさる)の物を食べる仕草が似ていることが人魚のモデル説になったんだろうね。しかし、グロテスクなジュゴンの姿を見ればジュゴンが美しい人魚のモデルではないということははっきり言える。ところが、ジュゴンは人魚のモデルとなったという噂は定着している。人魚は美しい。人魚が美しいのだからジュゴンも美しい、と言いたいところだが本当のジュゴンはグロテスクである。それなのに可愛いと言うレッテルをジュゴンに貼っているのは間違いであるし許せないと尚吾は思っているのだ。だからジュゴンを可愛いと言う人間は嘘をついているし尚吾はそのことが不愉快なのである。
なぜウチナーでジュゴンが注目されるようになったか。実はそのことにも尚吾が敢えてジュゴンはグロテスクであると断言したい理由になっているのだ。ヘノコの沖に普天間ヘリコプター基地の代替として飛行場を作ることになった。そういうことになれば当然アメリカ軍基地反対運動の人々や自然環境を守る運動をしている人々はヘノコの海にヘリコプター基地を作るのに反対する。軍事基地の強化、騒音被害に海の環境破壊が基地建設反対の理由だが。反対の理由はひとつでも多い方がいい。だからヘノコの沖で発見されたジュゴンは大きく新聞に掲載され、ヘノコの海にヘリコプター軍基地反対の理由のひとつに日本の天然保護動物に指定され世界絶滅保護種にも指定されているジュゴンの保護も付け加えられた。ジュゴンが注目されたのはその時からだ。ヘノコにヘリコブター基地建設の話が持ち上がらなければジュゴンがウチナー近海に棲息しているということは注目されることはなかったのかも知れない。その証拠にジュゴンがウチナー近海に棲息しているという噂は昔からあったかどうかはっきりしない。ただジュゴンの棲息北限はウチナーだろうという噂はあったが本気でジュゴンの調査をやった人間は一人も居なかった。つくりジュゴンの調査なんてことは一度もなかったんだ。当然ジュゴンのための藻場造り運動の話も一度だってなかった。ヘノコのジユゴンが噂になったのはヘノコヘリコプター飛行場建設の話が持ち上がってからなのだ。それ以前はヘノコの海のジュゴンについて話題になったことは一度もない。