美女のアキそしてジュゴン
ウチナー島の北部は人家が少なくそのほとんどが森林地帯になっている。山だらけの地帯ということで日本語では山の原という意味の「山原」、それをウチナーの方言ではヤンバルと呼んでいる。ウチナー島は南部中部北部と三つの地域に区分されているが北部のヤンバルはウチナー島の半分程の広さがあり地形上では北部と南部に分かれ南部を中部と南部という名称で分けてある。ウチナー島の半分を占めるヤンバルは山林地帯が広がり畑作には向いていないし大きい集落はなく小さな集落が海岸沿いに点在している。
ヤンバルのある所に小さな港町があり港町には飲み屋が五軒あった。五軒の飲み屋の中で港町の船着場近くにある小さな飲み屋をスナックワリガーミといった。 (昔ばなしのお話ではないからな。)。ワリガーミというのはウチナー方言で底が割れた瓶の意味である。底が割れた瓶に酒をどんなに注いでも一杯にはならない。日本語で底なしとかうわばみという意味がウチナーの方言ではワリガーミという。
スナックワリガーミは今日もいつものようにいつもの常連客の金城や諸味里や池間が酒を飲みつつ世間話をしていた。金城は以前はアメリカ軍基地雇用員だったがリストラされて今は細々と農業をやっている。諸味里も金城と同じアメリカ軍基地雇用員だったがこれまた金城と同じようにリストラされて家業の漁師を引き継いだ。池間は小学校の教諭をしていて三人は小学から中学までは同じ学校に通った竹馬の友である。
スナックワリガーミは仲村俊夫三十六歳と美紗子三十一歳の夫婦と美紗子の従姉妹である二十一歳の絵梨の三人でやっている小さなスナックだ。
ドアが開いて四十代半ばの女が店内を覗いた。
「あーら、まいさん久し振り。」
まいさんとママの芙紗子に呼ばれた女性の名前は大城麻衣子といい年齢は四十六歳。ダイビングを趣味としている麻衣子の肌は陽に焼けて浅黒く、長い黒髪を後ろに紐で束ねている顔は細面できりっとしている。二十数年前にやんばるに移住してきた麻衣子にはどこかしら気品があり彼女がヤンバル育ちでないことは彼女にヤンバル訛りがないことで分かる。ヤンバル訛りといってもこのスナックに集まる人たちはヤンバル方言で話すのではなく日本の共通語を話すから訛りは発音ではなくイントネーションに現れる。だから文章で訛りを表現することはできないし小説の内容には訛りは一切関係しないから、そのことはきみも了解してくれ。
「今日は一人なの。」
カウンターに座った麻衣子にお手拭を渡しながら美紗子は聞いた。麻衣子が一人でスナックに来るのは珍しい。
「アキちゃんに呼ばれたの。もう少しでアキちゃんが来る筈よ。」
アキはウチナー島の南部にあるウチナーの中心街である那覇に住んでいて麻衣子と同じようにダイビングが趣味で仕事のない時にはヤンバルに来てダイビングを楽しんでいた。
スナックのドアが開いた。麻衣子も美紗子もアキが入って来たと期待したが入ってきたのはアキではなく役所に勤めている高江州正夫であった。
「まいさん久し振りです。」
「まさちゃん。こんばんは。」
高江州はカウンターに座りながら店内を見回してから首をひねった。どうやら待ち合い人がまだ来ていないようだ。高江州は持っている紙袋をカウンターの上に置いた。
「マスター。これを冷蔵庫の中に入れてくれないか。」
「いいけど。紙袋の中にはなにが入っているのだ。」
「それは内緒。後のお楽しみだ。」
「ふうん。後のお楽しみということは紙袋の中身はこの店で披露するということだ。」
正夫は自慢げに、
「披露するどころか食べちゃうからね。もう最高なんだから。」
高江州は再び店内を見回した。
「まいさん。尚吾さんはまだ来ていないのですか。」
「え、しょうさんが来るの。」
尚吾は麻衣子の夫である。
「あれ、尚吾さんと一緒に来たのではないのですか。」
「そうよ。私はアキちゃんに呼ばれて来たの。そう言えばしょうさんも今夜は誰かに呼ばれていると言っていたわ。しょうさんを呼んだのはまさちゃんなの。」
「はい。しょうさんに頼まれていた物が手に入ったので呼んだのです。」
「しょうさんに何を頼まれたの。」
「それは秘密。後のお楽しみということで。」
高江州はにこにこしながら尚吾に頼まれた物が何であるかを勿体ぶって麻衣子には教えなかった。
「まいさん。私にダイビングを教えてください。」
絵梨は麻衣子に寄ってきて麻衣子にダイビングを教えてくれるように頼んだ。ウチナーの若者にダイビングが流行している。だから若い絵梨もダイビングをやりたくなっていた。
「いいよ。しかし、最近は忙しいので海に行く時間がないわ。来月には暇ができるからその時でいいかな。」
絵梨は麻衣子からダイビングを習うことになり、ダイビングに必要な器具について麻衣子は絵梨に教えた。
「こんばんは。」
スナックのドアが開き髪をぼさぼさにした男の顔が覗いた。
「いらっしゃい尚吾さん。」
絵梨が元気な声で尚吾を迎えた。
「あなた、こっちに座って。」
麻衣子は夫の尚吾を隣の椅子に手招きした。尚吾は麻衣子が居るのに一瞬驚いたが、麻衣子に言われるままに麻衣子の隣に座った。
「尚吾さん。遅かったですね。」
「ああ、ユンボで山を削る方法について高志と話していたんだ。」
「例の山のことなの。」
「ああ、そうだ。」
尚吾と麻衣子の夫婦は港町から五キロほど離れている山腹に住んでいる。山の南側面にさとうきびを植え、きび酢を作る計画を尚吾と麻衣子は実行しようとしていた。しかし、山を階段のような幅の狭いだんだん畑にする計画であったが、山は急斜面になっていて斜面に生えている雑木やすすきをユンボで排除して階段のような段々畑を作る作業が困難な壁にぶつかっていた。
「だんだん畑は作れそうにないの。」
「いや。作れる。しかし、中腹あたりの畑はユンボの車体幅の畑にしなければならないようだ。普通のユンボだけではなく小型ユンボがなければ作業を進めることができない。明日小型ユンボを運び入れることにした。」
「赤土の流出対策は大丈夫なの。」
「そうだなあ。それはだんだん畑が完成して大雨が降らない限りは大丈夫かどうかなんとも言えないな。」
ウチナー島の土のほとんどが粒子の細かい鉄分の多い赤土だ。山や荒地を開墾する時に剥き出しになった赤土が雨水に流されて海に出てしまう。粒子の細かい赤土は海を汚し珊瑚を死滅させてしまうので山や荒地を開墾する時には赤土が海に流出しないように工夫しなければならない。海が好きな麻衣子は赤土流出に神経質になっていた。
「しょう。それはないよ。赤土流出は完璧に防ぐと言ったじゃない。」
麻衣子は強い口調になった。
「完璧完璧というなよ。現実には完璧というのはない。マスター、酒をくれ。」
尚吾は麻衣子に責められて不機嫌になった。
「あ、尚吾さん。酒ですね。どの酒を出しましょうか。」
「そうだなあ。今日は何にしようかな。あわもりであればなんでもいいのだが。」
あわもりというのはウチナーの酒の通称である。日本酒とか焼酎とかウォッカとかウイスキーと同じ類の意味だ。
「今度、この町の酒造会社が新しい酒を出しましたが、その酒にしますか。」
「その酒は古酒なの。」
麻衣子が横から口を出した。
「い、いえ。古酒ではないですまいさん。はい。」
「しょう。私も飲むのだから古酒にして。」
尚吾は酒好きというより酒飲みなのである。うまさまずさを問わずどんな酒でも飲んだ。麻衣子は尚吾とは違い酒をあまり飲まないが、飲む時は酒の美味さにこだわった。
「そうだな。マスター。古酒でおいしいのはあるか。」
マスターが返事をしようとした時にママの美紗子がマスターを押しのけて、
「十五年古酒があります。滅多に手に入らない古酒ですよ。ヤンバルの酒名人が造ったとても風味のいい古酒です。」
「まい。ママさんお薦めの古酒にしようか。」
「そうしましょう。」
マスターとママはいそいそと酒の準備をした。マスターは550ml瓶の古酒とコップにミネラルウォーターを出し、ママはキッチンで木綿豆腐にカラスグァーを添えた小皿を出した。カラスグァーというのはあいごの稚魚を塩漬けにした肴で昔からウチナーの人々に親しまれている食品である。カラスグァーは酒の肴にもってこいだ。
尚吾と麻衣子は並々と酒が注がれたコップをカチンと合わせてお互いの労をねぎった。
「赤土流出を完璧に防ぐことはできないの。」
「というより、さとうきび畑が完成して雨が降らないとなんとも言えない。赤土流出対策を完璧にやったとしても相手は自然だ。予想できないミスは有り得る。雨量が多い時には赤土流出を覚悟しないとね。そして新しい対策を実行していく。それの積み重ねが自然との付き合いには必要だ。」
麻衣子はコップを両手で掴んでゆっくりと口に傾けた。
「ああ、おいしい。ぬちぐすいやっさー(命の薬だ)。」
と言って麻衣子は幸せな顔をした。
「さとうきびを山の斜面に植えるというのはいいアイデアでしょう。」
山の斜面にさとうきびを植えるというアイデアは麻衣子の口から出た。麻衣子に言わせるとススキが繁茂しているのだからススキに似ているさとうきびも繁茂するだろうという単純な根拠から山の斜面にさとうきびを植えることを思いついた。斜面なら太陽の恵みをたくさん受けて糖度の高いさとうきびを収穫できると麻衣子は確信している。太陽のエネルギーをたっぷり含んださとうきびからきび酢を作れば質の高い健康酢が作れるというのが麻衣子が山の斜面にさとうきびを植える理由である。
尚吾は山の斜面を開墾してさとうきびを植えることに最初は乗り気ではなかった。山の斜面では養分が少ないしそれに風をまともに受けるからさとうきびの成長は悪い。収穫量が少ないから収入も少ないというのが尚吾の見解だった。しかし、尚吾は麻衣子のアイデアを聞いた一週間後に麻衣子のアイデアである山の斜面にさとうきびを植えることに賛同した。きび酢を作るためなら大量のさとうきびを生産する必要はない。山の斜面に植わっているさとうきびの写真をインターネットのホームページに掲載して、ウチナーの太陽エネルギーを充分に吸収したさとうきび健康酢として宣伝して売り出せばよく売れるだろうと考えたからだ。麻衣子が言うような質の高い健康酢が作れるということには尚吾は疑問であったが、山の斜面に植わっているさとうきびは太陽のエネルギーを一杯吸い取っているというイメージがあるし、斜面に植わったさとうきびの映像はイメージ戦略としてはかなり効果がある。さとうきびを山の斜面に植えてインターネットで宣伝するのはいいアイデアだと尚吾は思った。
「うん、いいアイデアだ。しかし、赤土流出防止のだんだん畑を作るのは俺だぜ。苦労するよ。」
「だって私は畑のことはよく知らないお嬢様育ちだもの。農民の子のあなたが畑作りを担当するのは当然よ。」
「おいおい、俺たちは二十年以上も農民生活をしているのだ。なにを今さらお嬢様育ちだよ。」
「でもしょうは農民の子供よ。しょうは子供の頃から農業を経験したけど私が農業を経験したのは二十五歳からよ。私としょうには農民の経験年数の差が二十年以上もあるわ。その差は永遠に埋まらない。あなたは農民育ち。私はナーファのお嬢様育ち。農業についてはあなたが大先輩よ。そうでしょう。」
と麻衣子はいたずらっぽく笑いながら尚吾のコップに自分のコップをカチンと合わせた。
麻衣子にそう言われると尚吾に返す言葉がない。鶏の世話やハーブや野菜を育てる仕事はほとんど麻衣子がやっている。尚吾はインターネットのホームページを管理して麻衣子が収穫した鶏卵やハーブや野菜をインターネットで販売する仕事をしている。畑仕事をしているのは麻衣子である。麻衣子が「あなたは農民育ち。私はお嬢様育ち。農業についてはあなたが大先輩よ。そうでしょう。」と言ったのは軽い冗談なのだから本気になって言葉を返すわけにはいかない。尚吾は苦笑いするしかない。
麻衣子が那覇の資産家の娘であり尚吾が中部の農家の息子であるのは事実だしそのことは麻衣子と尚吾しか知らないのだからこれ以上その話題にこだわるとスナックの空気になじまない。というより尚吾には軽い冗談の掛け合いをするセンスがない。
麻衣子と尚吾は山を開墾してパイン畑を作り、自然飼いしている鶏の卵を売って生活をしていたが、パイン産業が下火になってきたので麻衣子が趣味にしていたハーブをパインの代わりに育て、尚吾はそのハーブをインターネットで販売することを十年前から始めていた。そして、麻衣子の提案としてさとうきびを育ててきび酢を作ることも始めることになったのだ。
「だんだん畑はいつ頃には完成するの。」
「一ヶ月後には完成するよ。」
「頑張ってね、しょう。」
麻衣子はにっこり笑うと尚吾のコップに自分のコップを合わせた。
「しょうさん。例のものを出しましょうか。」
高江州は尚吾に言った。
「そうだ。忘れていた。」
と尚吾が言った時、勢いよくドアが開きアキが入ってきた。
「まいさーん。今日は感激したー。」
と入り口から一気に駆けて来て麻衣子の隣に座った。そして十数枚の写真をカウンターの上に広げた。写真には海中を泳いでいるジュゴンの姿が写っていた。アキはヤンバルの海に潜り、滅多に見ることのできない絶滅の危機にあるジュゴンに生まれて初めて出会ったのである。ジュゴンとの遭遇は多くのダイバーたちの悲願である。千歳一隅のジュゴンとの出会いにアキは興奮していた。
「まいさんが教えてくれたダイビングスポットに潜ったらジュゴンに会えた。今日は人生最高の喜びの日よ。」
ダイビング仲間がデジタル水中カメラでジュゴンの写真を撮りプリンターでカラープリントしたのをアキは麻衣子に見せるために持って来たのだ。アキは自分の喜びをスナックの全員に分け与えようと皆に写真を配った。
「かわいい。」
絵梨はジュゴンの写真を見てますますダイビングがやりたくなった。
「私も海に潜ってジュゴンを見たい。まいさん。私にダイビングを教えてよ。」
「かわいいでしょう。潜れるようになったら絵梨さんをジュゴンの寄る所に連れていってあげるわ。でもジュゴンには滅多に会えないのよ。アキは運がいいわ。」
アキを中心にスナックはジュゴンの話で華を咲かせた。
「アキ。」
入り口に大きな白人がもじもじしながら立っていた。大きな白人はアキが連れてきたダイビング仲間で名前はジョンといい、アメリカ海兵隊の兵士である。
「ジョン、カモーン。」
アキに呼ばれてジョンは回りの客に「どうもどうも。」と言い、頭をペコペコしながらアキの側に来た。君が日本人ならアメリカ人のジョンが頭をペコペコしたというのが信じられないかも知れない。アメリカが支配しているといってもいいウチナーではアメリカ人はいつも胸を張り威風堂々としていると予想しているだろう。それは間違った理解だ。
世の中にはいい人間も居れば悪い人間も居る。気の強い人間も居れば気の弱い人間も居る。威張る人間も居れば腰の低い人間も居る。善意の人間も居れば悪意の人間もいる。ウチナーに居るアメリカ人もそんな世の中の人間の一人でしかない。ジョンは普通のアメリカの若者である。見知らぬスナックにしかも知らないウチナーンチュ(沖縄の現地人)の中に一人で参加するのはジョンにとって心細いし不安もあるのだ。
郷に入らば郷に従えという諺がある。その諺とは全然関係がないが郷に親しんだ者は郷の癖が身につくという現実がある。ジョンは日本人のダイビンググループと行動するようになったがジョンが仲よくなった日本人にはいつもぺこぺこする癖があり、ジョンは彼の癖が移ってしまい日本語を話す時にはぺこぺこする癖が身に着いていた。まあ、ジョンみたいにペコペコするアメリカ人は少ないけどね。
「まいさん。ダイビング仲間のジョン。ジョン、この人がまいさん。」
「どうも、始めまして。」
ジョンは麻衣子にぺこりとお辞儀をした。ジョンはアキの隣に座った。
「ジョンはなにを飲むの。アワモリがいいかな。」
「ノー。私アワモリは飲めない。」
ジョンは苦虫を潰したような顔をしながら手を横に振った。
「バドワイザーありますか。」
ジョンはバドワイザーを注文した。
「バトワイザーは昔からありますよ。」
マスターはジョンにバドワイザーを出した。
明るくて華やかなアキを中心にスナックはジュゴンの話題で充満した。スナックの中は賑やかになった。
「ジュゴンの保護の為にもヘノコの海にヘリコプター基地を作るのは反対よ。ウチナーの海を汚してはいけないよ。そうよねジョン。」
ジョンもスナックの雰囲気に打ち解けてきていた。ジョンは日常会話ができる程度の日本語は習得していた。
「え、なんですか。」
「ヘノコよヘノコ。あそこにアメリカ軍のヘリコプター飛行場を作ろうとしているでしょう。それは反対と言っているの。」
「ああ、ヘノコね。僕も反対です。海はきれいが一番。日本の政府もアメリカの政府も間違っています。」
「まいさんも反対でしょう。」
「勿論反対よ。」
アキはヘノコの海のヘリコプター基地建設に反対を主張しながらスナックの全員に賛成か反対かを聞いて回った。美人で気の強いアキが賛成か反対かを聞いて回ったから全員がアキの意見に賛成し、話は盛り上がった。