夜色の琥珀糖
孤独だった。
時刻は0時半を回っている。もうわたしは日付を跨いでしまって、机の上にはあまり進捗のないノートと教科書が開かれている。天井の電気だけが白白と明るく部屋全体を照らしていた。机とベッドと本棚だけの部屋で、わたしはどうしようもなく、孤独だった。
「ごめん、遅れちゃって」
走ったせいで上がった呼吸を宥めながら携帯に視線を落としている友人に声をかけると彼女は顔を上げて小さく笑った。待ち合わせの時間は15分ほど前に過ぎてしまっていた。
「いいけど、どうしたのさ。珍しいね」
「昨日試験勉強で遅かったから」
彼女はへえ、と驚いたように声を漏らした。
「試験って明後日じゃん。なんでそんな早くから勉強してんの?」
「勉強しなきゃ単位を落とすでしょ」
あまりにも危機感という言葉の似合わないこの友人に、わたしは溜息混じりに答える。彼女だって試験が近いはずだ。
「前日でなんとかなるでしょ、落とさなきゃいいんだし」
「あんたはそれでいいかもしれないけど、わたしは不安なの。もう試験の話はいいから、行こう」
遅刻したわたしが行こう、なんて随分なことを言ったとあとから思ったがなんだか引っ込みがつかなくてそのまま歩き出した。別にどこに行くと決めているわけではない。わたしと彼女はいつもそうだった。待ち合わせをして、なんとなく街を歩いて目に付いたお店に入って、お腹が空いたらそのときの気分で食べたいものを食べて、なんとなくまた今度と言って別れる。取るに足りないことでずっと笑っていられたし、ひとりのときなら見向きもしないようなお店もーたとえば靴屋とか服屋とかーどこでも楽しかった。
「ねえあの店さ、前はなかったよね」
彼女が指した先は小さな雑貨屋のようだった。ログハウスのような外観、看板には手書きのようなまるい文字で店名が書かれている。入口のドアの両脇にある窓からすこしだけ店内のようすが見えて、何より、窓辺に置いてあった青い透明な石が入った瓶が目に留まった。入ろうよ、とわたしを振り向いた友人に頷いてわたしたちは歩道を渡って、木造りのドアを押した。
中は涼しかった。ひんやりとした空気と暗めの照明のなかでしずかに、しずかに時間が流れているようで、ひとつ息をつくにもなんだか緊張してしまう。入口で突っ立っているわたしをよそに、友人は目をまるくしたり細めたりして店内を歩き始めていた。夜空を切り取って嵌め込んだような金色の針の腕時計、明るい海を閉じ込めたハーバリウムに朝焼け色のガラスのペン。この店に売っているものはどれも溜息が出るほどうつくしかった。
わたしはふと、外から見た窓際の瓶を思い出して窓へと目を移した。近づくと窓際に置かれたもののほかに同じような瓶が並んでいて「琥珀糖」と書かれていた。
「食べたことはありますか。琥珀糖」
店員だろう、柔らかい女性の声がした。わたしの隣に並んだそのひとは、背が高くて肩の上で切り揃えられた黒髪がさらさらと揺れる綺麗なひとだった。わたしはしばらくその揺れる髪を見つめてしまってから慌てていいえ、と返した。
「色をつけた寒天をね、乾かしたものです。食べる宝石なんて仰る方もいるのよ」
そう、それは宝石のようだった。深海のような青や空色、薄い桃色の欠片は表面がすこし白く結晶化していて、食べられるなんて思えないような。
「色によって意味が違うの。誰かのこじつけだと思うけど……たとえば、この桃色は決意。緑は安寧、空色は才知で、紺色は」
深海の、あるいは夜の色の瓶を見て彼女は一度言葉を切ったから、わたしは気になってしまって彼女の方を見た。
「紺色は、孤独。孤独な時にひとつずつ食べると、寂しさが和らぐって言われているわ」
言葉が終わってから、時間が止まったような気分になってその深い青い宝石の入った瓶を見つめた。それからあの深夜の真っ白な部屋の電気と重い秒針の音を思い出した。
店を出ると、午後4時を過ぎていた。友人はあの夜空の腕時計を買ったらしい、何も言わないけれど左の手首に金色の縁が光っている。
「何か買ったの?」
手に提げたわたしの袋を見て彼女は尋ねた。
「琥珀糖。お菓子だよ。孤独の色なんだって」
言ってからすこしだけ後悔した。彼女はといえば目をまるくしてわたしの顔を見ている。
「孤独なの? 私がいるじゃん、なんてね」
「……そうだね」
いつもならわたしが何を言ってるの、なんて返すところなのに、いよいよ彼女は不思議そうに首を傾げた。そのようすになんだかわたしは気まずくなってしまって、自分の腕時計に目をやって今日はもう帰ろっか、と早口で言った。
「まだ明るいし、もう少しどこか行こうよ。いつももっと遅くまでさ……」
「明後日試験だって知ってるでしょ、あんただってそろそろまずいんじゃないの?」
言葉が刺々しくなってしまう。いけない、これでは。しかし彼女はどこまでもわたしと正反対でのんびりとしていて、最後にこういった。
「なんとかなるって」
その言葉がどうしてもわたしは許せなくてーなぜそこまで苛立ってしまったのかわからなかったがー唇を噛んでそれから、
「なんでいつもそうなの。勉強してるこっちが馬鹿みたいじゃん」
帰途の記憶が全然ないけれど、家に帰ってわたしは雑貨屋で買った琥珀糖の瓶も投げ出してベッドに倒れ込んだ。あんなのはただの八つ当たりだ。わかっていてなお彼女の楽観に苛立って、勉強していた自分が惨めになって、酷いことを口走った自分が嫌になって、色々な感情が縺れたままわたしは眠った。
目が覚めたとき部屋は暗くて、窓から外の街灯の光が漏れて窓際の机の上だけがぼんやりと浮かぶように見えていた。しばらくベッドの上で天井を見つめてから、不意にあの琥珀糖のことを思い出して身を起こす。暗さに慣れた目に、床に無造作に放られた雑貨屋の袋が映った。紙袋から瓶を取り出し、ベッドに座ってから蓋を開けると中で微かにしゃら、と音がした。一欠片だけ手のひらに乗せた琥珀糖は思ったよりも軽くて、表面は海辺の石のようにさらさらとしていた。孤独の色。寂しさが和らぐと言われたその紺色の宝石を口に含むと、さりさりと崩れて少しのレモンのような味の後に砂糖の甘さが残った。それがあまくて、ほんとうにあまくて、すこしだけ泣いてから枕元にあった携帯を取り上げて、彼女の連絡先を開いてしばらく考えたあとごめん、とだけ送った。
期末試験の出来はまずまずだった、ように思う。相変わらず試験勉強は孤独で、それに彼女との連絡も会う機会もなくなったこともあって身があまり入らなかった。ごめんと送ったきり返事はなくて、自分から八つ当たりをしてしまったのにあの言葉がきっかけでもう話せなくなったら、という不安が常に頭の片隅にちらついていて、そうしてどうしようもなくなったときわたしはあの夜色の琥珀糖を一欠片食べた。明日からは夏休みに入る、とカレンダーを見たついでに机の上の瓶に目を移すと琥珀糖はもう少しでなくなりそうだった。全部なくなったらわたしの孤独もなくなるんだろうかと思ったらなんだか彼女に会いたくなった。
夏休みに入って半月が経った。成績も開示されて、それによれば試験後に思ったようにまずまずだったし、明日の2限に一度休講になった授業の補講があるのも知った。夏休みに登校と思うとすこし気が滅入ったけれど、それを終えたら何もないと思うことにしてわたしは琥珀糖の最後の一欠片を食べた。
翌朝、まだ9時の目覚ましが鳴らないうちにインターホンの音で目が覚めた。目覚ましだったら無視して眠ることもできるけれどインターホンだとそうもいかず渋々玄関まで確認に行く。小さな画面に映っていたのは他でもない、しばらく会っていなかったあの友人だった。重くまつわっていた眠気もさめてわたしは慌ててちょっと待って、と告げてから着替えてドアを開けた。
「わたし、今日は2限から補講があるんだけど……なに?」
冷たいお茶を注いだコップはすでに結露して机にちいさな水溜まりを作っている。その時間のあいだ、彼女は何も言わずに時々お茶を飲んでは何かを考えているようで、時間もあまりなくなってきたわたしの口調はつい刺々しくなってしまう。それでも彼女は表情を変えなかったけれど、じっと机に落とされていた視線はわたしに向けられてひとつ息をついたあとようやく口を開いた。
「……私さ、勉強しなきゃまずいとは分かってるけど全然やる気になれなくてさ、だから勉強してる君をすごいと思ってるよ。君は頑張ってるのに勉強してない私が何とかなるなんて言ったの、気に障るよな、ごめんね。あとごめんって言ってくれたのも返してなくてごめん、直接言わなきゃって思ってたら返せなかった」
そこまで彼女はひと息に言ってまたお茶を飲んだ。なんと返してよいかわからなくてわたしは黙ったまま透明なコップを流れていく結露を見ていた。
「君とは高校まで一緒だったし、大学も同じだったから正直嬉しかったよ。いつもちゃんと勉強してるのを見てすごいなって思ってたし馬鹿みたいなんて思ったことはないから。あとさ」
彼女は一度言葉を切って、今度はいくらか表情を和らげて続ける。
「成績見たら結構単位を落としてて後期で頑張らないとまずそうだから……君と一緒に卒業したいし、ほんとうに今更だけど勉強を教えてくれないかな」
すこし気まずそうな彼女の顔を見て、なんだか緊張や不安が一気にほどけたような気がした。
「いいよ、あの……八つ当たりしてごめんね」
いいって、と笑いを含んだ柔らかい声とやっと謝れたことの安堵感にわたしも口元が緩んでしまうからわたしは再び言葉を継ぐことにする。
「勉強は教えるけど、今日は遊びに行こう。夜まで」
「でも君、2限から補講じゃないの?」
「いい。何とかなるよ」
彼女は一瞬目をまるくしてから真似するなよ、と笑った。もう何も入っていない夜色の琥珀糖の瓶は、机の上で陽光と青空を透かしていた。