無
いつも忘れられてる神様
──ここまでの物語で疑問に思ったことはあるか?
──きっと、神たちは疑問に思わなかっただろう
──気づかなかったか、あるいは、気にもとめなかったのか
─────『無』という存在を知らなかったのか
『曖昧』という『有』の神が目覚めたと同時にその神も目覚めた。何もないという『無』の神だ。
『無』の神の存在は確実なものだ。確実のものが生まれた故に曖昧なものが生まれ、曖昧なものが生まれた故に確実なものも生まれたのだ。
『無』の神はその名の通り何もないものを司っている。『始まり』の前、そして『終わり』の後ろだ。
人のなかには「終わりは始まりで、始まりは終わりだ」と、そんなことをいう人がいる。それはある意味あっているが間違ってもいる。終わりの後、始まる前。その空間には確かに『無』が存在している。『無』はその特性故に、そしてその強い力故に時間を歪める。そもそも始まりと終わりの間に時は刻まれるが、終わりと始まりの間には時は刻まれない。だから人はその存在をうまく認識できない。『無』という確実なものを知っていたとしてもだ。
神には『無』という存在が理解できない。『無』の神は無であるが故に『有』の神たちのことを知らない。自身が『無』であるという認識もない。何もないことを証明するのはとても難しいことだからだ。ただ『無』という概念は知っている。それだけの話だ。
『曖昧』の神さえ『無』の存在は知らない。いや、知っていたかもしれないが『無』の神の存在は認識していなかった。
『曖昧』の神が生まれたとき世界は『有』に染まったからだ。
『曖昧』の神も『無』という概念を知っていても、それを見たことはなかった。
「曖昧の神は有の神でもある。曖昧とは限りなく薄い存在も表す。ないかもしれない、あるかもしれない。その存在があるとき、必ず『有』の可能性は示される」
この言葉は今ではとても有名だ。『天狼』という種族の遺跡に刻まれた神についての議論の痕跡。
天狼は一神教で『曖昧』の神のみを崇めてる。それはその言葉が刻まれたころも、そして今も同じだ。狂っているかのようにその神だけを尊敬している。我が『曖昧』の神の存在を知ったのも天狼の友人に語られたからである。『曖昧』を知るために確実なものを調べ、語る。そんな種族だ。
しかしそんな彼らを馬鹿にすることはできない。その特性故に認識をしていないかもしれないが我々は『無』の神を崇めているといっても過言ではない。天狼にとって、『曖昧』は美しく、そして恐ろしい。これは我々も同じようなものだ。「終わりと始まりの間は美しく、恐ろしい」
我々の生涯も同じだ。生まれる前はどこにいたのか、死んだ後はどこにくのか。そんなことばかり何千年も話し合っている。
恐いが故に美化をし、美しく語り継いでいる。死んだ後は天国にいくだとか、地獄にいくだとか。
結局、どうあがいたって最後は『無』に帰るだけだというのに。