院長先生の手記
ここ数年、私が心を痛めていたのは、ポーラ・クロフォードの件であった。
彼女は先天的に呼吸器に重大な問題を抱えており、生まれた時からこの病院で暮らしている。
いつ発作が起きるか分からない為、彼女は見えない鎖に繋がれた生活を強いられているのだ。
本来なら彼女は小学校に通い始める年齢を迎えているが、依然としてポーラの活動範囲は極めて狭い区画に限られている。
学校で勉強をして、公園で友人と遊び、休暇には家族で旅行に出掛ける。
そんな当たり前の日常が、彼女にとっては木星探査に匹敵する難題である。
これを運命と言ってしまえば、確かにそうなのかもしれない。
だが、それは小さな少女に背負わせるにはあまりにも重すぎるものだ。
彼女が成長するにつれ、自らの置かれた境遇を理解するにつれ、運命とやらの理不尽さは彼女の心に暗い影を差すようになった。
近頃においては、楽しみにしていた敷地内の散歩にもあまり乗り気を示さず、部屋でぼんやりしていることが多くなった。
これは良くない兆候であった。
ポーラに必要なものは、希望であった。
「運命よ、そこをどけ」
彼女にそう言わしめることが可能なのは、未来への強い願望に他ならない。
私は、ふと思い付いたアイデアを実行してみることにした。
彼女の親友である仔熊のぬいぐるみ、フェルカにひと肌脱いで貰おうと、私は彼をロンドンに連れて行った。
学会で久し振りに会った友人のアルバートは、私の持っていたぬいぐるみを見て
「よう、随分顔に似合わないものを持っているな。パブのお姉ちゃんへのプレゼントかい?」
などと軽口を叩いていたが、私の計画を聞いた彼は喜んで協力すると言ってくれた。
私が託した布製の使者を大切そうに抱え、彼はニューヨークへ帰って行った。
私の突飛な計画は、期待以上に上手く運んでくれたようだ。
週に一度くらいの頻度で病院に送られてくるフェルカからの手紙は、ポーラの表情を盛夏の向日葵のように輝かせた。
しかしながら旅の道中、海に落ちて行方不明になったと聞かされた時は
「最早これまでか。しかし彼は充分な仕事を果たしてくれた。最大限の敬意を払おう」
そう思ったものだが、その後フェルカが成し遂げた奇跡において、私は彼自身に宿った強い意志を感じずにはいられなかった。
そして、その擦り切れた身体に世界中の愛を詰め込んで帰ってきた彼が、またポーラに奇跡をもたらしたのであろう。
長い闘いの末、ようやく得た自由の翼を羽ばたかせ、ヒースローの空へ飛び立ったポーラを見送った後、私は馴染みのパブを訪れた。
「この素晴らしき世界に乾杯」
隣に座っていた見知らぬ紳士とグラスを合わせ、よく冷えたロンドン・プライドを喉に流し込んだ。
それは人生で有数の美味いビールであった。