ナーニャ王女様
ギィン!
金属が不快な音となって耳の奥を刺す。
「おい! ナトリなにやってんだ!」
ハッと見上げると、そこにはよく知っている男の背中があった。
「……アロナ」
「夢あんだろ! あっさり受け入れてんじゃねーよ馬鹿!」
「ばっ……!」
アロナに馬鹿と言われ、一気に血が頭に上がった。と同時に、いまの状況を冷静に確かめる。私を助けるために、アロナは男との間に割り込み、剣を剣で受け止めてくれたのだ。
そうなると、私がすることはただ一つ。
地面に両手をつき、ぐっと体を縮めて、ガラ空きだった男の腹をめがけ、一気に足を跳ね上げた。
「ぐえっ!」
蛙がひしゃげたような音が男の喉から聞こえ、そしてドスンと後方へ崩れ落ちた。
命は助けられたけれど、このあと私は王女様の隊列を乱したものとして私は罰を受けるだろう。王女様の傍付きの騎士になりたかったが、これで道は完全に塞がれてしまった。
「貴様……! なにをしやがる……!」
のろのろと男が立ち上がり、その後ろには別の近衛騎士が駆けつけていた。門を守る兵士たちも、王女様の馬車を守りつつ、こちらに意識を向けている。
これから捕縛され、連行され……ああ……終わったな、私。
そう諦めかけた私だけれど、すぐそこに王女様がいるので、背を伸ばし、まっすぐに前を見据えた。それは、誰にも負けない王女様の騎士である、という自分の矜持の為だ。――たとえ心の中だけだとしても。
「おい、こいつを捕まえろ! 不敬罪だ!」
男が怒鳴るが、後方に控える騎士たちは逆に石畳へ膝を折る。それはまるで王族へ控える騎士のように。
「どうした!? お前たち、はやくこいつを――」
「待ちなさい」
そこへ、リン、と鈴が鳴るような声がした。
ざわついていた人々の声が、水を打ったように静まり返る。
「お……王女様……」
呆けたような男の声に、私は思わず息を呑んだ。そこには、敬愛してやまない王女様の姿があった。私はそれを見て、慌てて膝を着いて首を垂れる。
コツコツとこちらに近づく音がした。こんな間近にすることは、いままで一度もないことで、緊張からか肌という肌がピリピリと痛い。
浮足立つ心と裏腹に、頭のほうは妙に冷静になっていく。
なぜ王女様がわざわざ馬車を降りたのか……
私は周囲に意識を集中させ、様子をうかがった。
「ナーニャ様! ここは危険です、馬車にお戻りを!」
「下がりなさい」
王女様――ナーニャ王女様は、不機嫌な様子を隠すことなく、その男に言っ。
「はっ。し、しかし……」
「私の声が聞けて?」
涼やかな声だが、有無を言わさぬ力がある。男は周りの人々と同じように、膝を着いた。ナーニャ様は、男にそれ以上言葉をかけることなく、再び歩を進める音がした。
コツコツ、コツ。
……美しい煌めきのある靴先が、なぜか私の目の前に見える。
「ねえ、顔を上げてくださる? ええと……ナトリ?」
心臓が止まるかと思った。
王女様が、私の名前を……私の名前を、いま、いま、いま、言った??
「ナトリ」
「はい」
畏れ多いが、命令なので顔をゆっくり上げる。すると、そこには初めて見たあの頃よりうんと大きくなっていた王女様が立っていたのだ。
私が近衛騎士を志してから八年……つまり、王女様は八歳になられる。身長は、膝を着いた私の目線と同じくらいで、髪は緩く波を打った飴色で、艶々と美しく輝いている。新緑の瞳の縁を飾る睫毛はたっぷりと、そして鼻筋はスッとして形よく、薄桃色の唇はふっくらと愛らしい。
想像通りのナーニャ王女様が私の目の前に立ち、私の名前を呼んでくださった。それだけでなく、私の手を取り、「痛くないですか? 怪我していませんか?」と私の心配をして下さって……!
「問題ありません。こちらは危険です、馬車にお戻りください」
舞い上がっていたが平静を装い、とにかく王女様を馬車に戻そうと言葉を添えた。
私は〝門兵〟だ。王族が無事通過するための警備にあたっている。だから、この場にとどまらせている場合ではないのだ。
しかしそこにのんきな声が飛んできた。
「ナトリずるい! 俺の時そんな嬉しそうな顔しないのに!」
えっ、そんな顔に出てた!? ……じゃなくて!
「ア、アロナ! 王女様の前で失礼だぞ!」
「俺はいいんだよ」
「よくないだろう!」
ついいつもの調子でアロナに返したら、フフフッと、鈴を転がすような声で王女様が笑った。
「失礼、しました……」
ナトリのせいでナーニャ王女様に笑われてしまった。アロナめ、あとでどんな目に合わせてやろうか。
恥じ入るばかりの私をよそに、当の本人は「そんなナトリもかわいいな~」と全く空気を読まない。
「ちょっと、ナトリをあまり虐めないでくださる?」
「虐めてなんていないじゃないか、人聞き悪いな」
「アロナ、そろそろいいでしょう? ちゃんと話しておいてくださいね」
「……わかったよ」
ナーニャ王女様は、アロナに向かって親しげに……むしろ、親密といっていいほど、近い空気を感じた。絶対ね、と王女様は念押しし、来た時と同じように笑いながら馬車に戻る。
御者の出発の合図で馬車は軋んだ音を立てながら、ゆっくりと走り出す。私は夢でも見ているのかと思いながらも、いつもそうするように敬礼してやり過ごそうとした。
「ナトリ、またね」
しかしいつもと違ったのは、王女様が馬車の小窓から私に向かって名を呼び手を振ってくれたのだ。いつもなら絶対通り過ぎるまで顔を上げないのだけど、この時ばかりはつい顔を上げ見送ってしまった。
そしてその馬車の後には近衛兵が続き、そのうち一人は苦々しく私を睨みつけながら通り過ぎていく。
……この一時だけでも邂逅できた。一生の思い出を胸に刻みつけておこう。
王女様が乗る馬車の一団は、もう見えなくなってしまったが、私はなかなか動くことができなかった。